投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月18日(日)10時33分43秒  

大聖人はこの「法華経」という言葉を引用される場合の意味は三つあります。

①文字通りの釈尊の法華経を指す場合
②大聖人の仏法を指す場合
③御本尊を当時の人に理解させるために使う場合

などです。

ポイントの御文の場合は、当然、御本尊を指していることは明白だと思います。
竜口で発迹顕本され、佐渡で開目抄・観心本尊抄を著され、
正像二千年には顕れたことのない「生命を図顕した御本尊」が出現した。

その御本尊のことを大聖人は、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ。
仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(一一二四頁)と仰せです。仏が全生命を賭けて顕した御本尊。

その御本尊に、あと、何が必要なのですか――。
御本尊はそれ自体で完璧なのです。

後世の弟子が、何を以ってしても、日蓮大聖人の生命を汚すだけです。
歴代の単なる書写係りの「法主」如きがいう開眼等や、その他もろもろの決め事。
弟子がその権限以上の事をすれば、もはや大聖人の生命を写した御本尊とは、似て非なるものです。

それらは、大聖人の生命と比べたらカスのような物です。