投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月18日(日)10時32分50秒  

虹さんの説
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グリグリ様は「大御本尊」という言葉を使わずに、出世の本懐を講義されました。
「本門の戒壇」との文底には「大御本尊」という言葉を含んでいると解釈してもよろしいでしょうか。「本門」において出世の本懐の解釈も乗り越えるべき問題と思いますがいかがでしょうか。
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虹さんから、問題提起をしていただきましたが、ひとまずこれは置いておきましょう。笑
まず、三大部御書の講義をよく読んで、しっかりと思索してください。
生意気な言い方で申し訳ないですが、結構、真面目に言ってます。

池田先生が、会長就任式で師子吼されたのは「化儀の広宣流布を目指す」でした。
日蓮大聖人の「大聖人」は尊称ですが、「日蓮聖人」と「日蓮大聖人」との呼び方のちがいは、何ですかねぇ・・・。

「聖人」と呼ぶのと「大聖人」と呼ぶのは、化法の問題ですか、化儀の問題ですか。
どっちですかねぇ。誰が、何のために、どういう目的で「大聖人」と呼ぼうと言ったのですかねぇ・・・。「聖人」と「大聖人」とは、何がどうちがうのですかねぇ。これはただの尊称だと思うのですけれど・・・。

さて「仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はず」
「此の御本尊左右前後に立ちそひて」
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等・衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」

この御文は、日女御前御返事(一二四四頁)に出てくる文ですが、
私たちが信心をして、仏界を涌現するために大事なことが書いてある御文です。
ポイントは一つ「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」ということです。

千六百ページ余りの御書には「法華経」という文字が、なんと「千七百八十九か所」もあり、
大聖人は「法華経」という言葉を、実に様々な形で用いられています。