2016年6月5日 【創価思想の永遠性と偶像化】6/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月 5日(日)12時09分47秒 池田先生は 「『如是我聞』の心とは『師弟不二』の心です。それが仏法伝持の極意です。 一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、 響き合う『師弟不二』のドラマ――それが『如是我聞』の一句に結晶している」 (法華経の智慧一巻八十九頁) と述べられています。 このように法華経序品第一を見ていくと、序品のポイントは過去の仏である日月灯明如来が、 白毫の光で世界を照らす瑞相を示したあとに法華経を説いたことから、 同じ瑞相を示した釈尊も先仏(日月灯明如来)と同様に法華経を説くであろうと予言したことにあります。 つまり、法華経は釈迦仏だけが説くものではなく、多くの仏が説く普遍的な教えであるとする見方です。 実際に日月灯明如来だけでなく、大通智勝仏・威音王仏・不軽菩薩なども、法華経を説いたとされているし、 戸田先生は正法・像法・末法という三時においてもそれぞれの法華経(釈尊・天台・日蓮)があると述べられています。 私たちに置き換えて言えば、 師匠の心を我が心とし、末法の経典(御書)と創価三代の指導を如是我聞して説く人は、 大聖人と同じく、創価三代の師匠と同じく法華経の行者であり仏法指導者に成り得る存在であるということです。 幹部だから指導できるというのではなく、師匠の心を心としているか否かです。 この道理がわからない人が仏を偶像化していくのだと思います。 Tweet