2016年6月5日 【創価思想の永遠性と偶像化】7/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月 5日(日)12時10分22秒 大聖人は 「仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには 必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか」(御書二九三頁) と訴えました。 仏法を習い極めようとしない人間が、 どうして親の恩、師匠の恩、国の恩を報ずることができるのでしょうか。 智者とならないでどうして民衆を幸せの軌道に乗せていくことができるでしょうか。 信心の基本は「信・行・学」です。 この三つの科目を極めようとしない人間が、どうして先生亡きあと 「山本伸一」の自覚に立って広宣流布をしていくのでしょうか。 池田先生が会員一人ひとりを大切にするのは、役職に関係なく誰もが「信・行・学」に徹すれば、 未来の仏法指導者に成り得る尊貴な存在と見ているからであるし、 幹部に厳しい態度を示すのは、指導者として仏法を習い極めようとしない 甘ったれた姿勢(一念)があるからだと思います。 過去の仏も、今の仏も、未来の仏も仏法を習い極めて 「信・行・学」に徹し抜くからこそ、仏の永遠性が立証されるのだと思います。 この先仏と今仏をつなぐのが文殊師利と弥勒なのです。 しかもどちらか一方だけを登場させるのではなく、二菩薩(文殊と弥勒)を並べ 質問者と答弁者の役割をさせているところに、常に客観性を重視する法華経作成者の態度がうかがえます。 また、名誉や利益に執着していた「求名」を弥勒の前身とし、求名の師である「妙光」を文殊師利に当てはめ、 弥勒を文殊師利に対する質問者にしていることは、 法華経が弥勒信仰をあえて貶める立場であることを物語っています。 前回の論考【地湧の菩薩と動執生疑】でも触れましたが、 法華経は説かれる冒頭から、徹底して「師匠根本・師弟不二」の経典なのです。 Tweet