投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 2月17日(水)22時16分3秒 編集済

【池田】

歴史時代に入って以来、およそ国家と名のつくあらゆる国は、自衛のためと称して武力をもってきたと思います。武力は国家の力の代表のようにさえ考えられてきたようです。

現代も、それは例外ではありません。というより、むしろ現代に至って、科学技術の発達により、武力はかつて想像もしなかったほど強大になり、それに要する出費は膨大なものになっております。

とくに、米ソ英仏中のいわゆる核大国が装備している武力は、他国による侵略の防衛という概念をはるかに超えて、もしその力が行使されれば相手国はもちろんのこと、自国を含めた地球上の全人類の生存を脅かす規模と質のものになっております。

もはや現代における武力は、既成の、歴史的に馴れ親しんできた防衛力という考え方とは異質のものになってしまっている、と考えなければならないでしょう。つまり、武力をもつ大義名分は、現代においては、すでにその根拠を失ってしまったと私は考えるのです。

【トインビー】

世界が約百四十の主権国家に分割されている現在の国際構造下で、最も効果ある国家自衛手段とは、物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄することです。ただし、この場合、例外とすべきは、最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる、国家警察軍の存在でしょう。

他の主権国からの攻撃に備える、防衛のための軍備と軍隊を放棄するには、もちろん、本質的に他国を傷つけるような、また他国政府に正当な苦情の根拠を与えるような、国家的行動、政策を放棄しなければなりません。

ほとんどの政府が、そしてほとんどの個人が、今日、主権国間での、一国による他国攻撃が罪悪であることを認めています。戦争目的のためにつくられた国家の省庁や国家予算が、今日では一般に″戦争省″とか″戦争予算″とかの名称をもたず、ましてや″侵略省″とか″侵略予算″などと呼ばれず、″国防省″とか″国防予算″などと名づけられていますが、これは意味深長なことです。

【池田】

おっしゃる通りであり、国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分は、まやかしにすぎません。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためといって、青年たちに生命の犠牲を求めるペテン行為です。その″まやかし″″ペテン″を最も象徴的にあらわしているのが″国防省″――日本の場合ですと″防衛庁″――であり、″国防予算″″防衛予算″という名称です。

なぜなら政治権力の多くは、この″防衛″を口実につくりあげた軍事力によって″侵略″を行い、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたのですから――。本当に″防衛″のためだった例は、きわめて稀でしかなかったのではないでしょうか。

【トインビー】

ところが実際には、防衛のための編成・装備・徴兵と、攻撃を意図した同様の準備とを、予め区別することはできません。それゆえ、うわべは防衛を装った準備が、じつは攻撃を意図したものであるかもしれない、という疑惑を呼ぶわけです。

そこで、これを脅威とする国は、それに対抗する準備を始めることになります。こうして、ひとたび軍備競争が始まると、競争国のいずれかがこの競争に勝とうとして奇襲攻撃をしかけ、これを予防戦争と称して侵略行為を正当化しようとしがちになります。

第一次世界大戦でドイツが敗北した後、デンマークは、シュレスヴイヒ地方のうち、ドイツ系人口が大半を占める地域については、ドイツから再併合することを拒否しました。シュレスヴイヒ全域は、かつて一八六四年の戦争でプロイセンとオーストリアに奪われたものであったにもかかわらず、デンマークはあえてそうしたのです。その後、両次の世界大戦の間に、デンマークは事実上軍備を撤廃しました。

第二次大戦において、ドイツは、いわれもなくデンマークを軍事的に占領しました。しかし、第一次大戦後に画されたデンマーク・ドイツ国境線は、そのとき、ヒトラーの軍隊が一時的に占領した領土のうち、ヒトラーがドイツに有利なように修正するのを控えた、数少ない国境線の一つとなったのです。

このように、デンマークが自主的にとった軍備撤廃政策は、さきに領土上の不正を拒否したことと相まって、たとえドイツが第二次大戦に勝っていたとしても、その正しさが立証されたことでしょう。

しかし、最良の自衛策が物理的防衛手段の放棄であるという論理は、まだ世界のほとんどの群小主権国家の受け入れるところとはなっていません。たとえば、中立の方針に身をゆだねた二つの主権国家、スイスとスウェーデンですら、侵略の抑止力として強力な軍備を保持しています。

スイスは、その軍備のおかげで、たしかに両次大戦を通じて中立を守っています。スウェーデンもまた、両大戦において参戦を回避することに成功しました。しかし、後者の場合、第二次大戦においては、それはたまたまドイツがスウェーデン侵攻に何の戦略的価値も認めなかつたからのことにすぎません。しかも、スウェーデンの中立を侵犯しなかったことの代償として、ドイツはスウェーデンから戦時輸送設備の接収を行っています。これはたぶん、厳密にいえば、スウェーデンの標榜する中立性とは相容れないものであったはずです。

【池田】

現在、日本の国内では、戦力を一切放棄することを定めた憲法第九条をめぐって、自衛のための軍備が、この規定の対象になるかどうかが問題とされています。法理論上の問題は別として、現実の国際情勢下において、いかにして自国の安全と生存を維持していくかという観点から、この議論が起こっているのです。

再軍備をすべきだと主張する人々は、日本を除けば世界のどの国家でも軍隊をもっている実情を理由に、自衛の手段としての軍備をもつことは、独立国として当然だとしています。一切の軍備を放棄し、一切の交戦権を認めないならば、たとえ法理論上では自衛権を認めたとしても、実際的には自衛の意味をもたず、したがって自衛権そのものを否定することになるというわけです。

これに対して、軍事力による自衛権の保障ということに反対する人々は、自衛権の行使は、必ずしも軍事力による必要はなく、その一切の放棄という姿勢は、現状の国際関係のなかで十分な力をもつとしています。

自衛権は、対外的には、いうまでもなく、他国の急迫不正の侵略に対して、国家の自存を守る権利です。それは、対内的には、そして根本的には、国民の生きる権利を守るという考え方に根ざしています。

すなわち、個人の生命自体を守るという、自然法的な絶対権の社会的なあらわれが国の自衛権というものであると思います。であるならば、その自衛権をもって他国の民衆の生命を侵すことができないのは、自明の理です。ここに自衛権の行使ということの本質があります。

問題は、あらゆる国が他国からの侵略を前提として自衛権を主張し、武力を強化しており、その結果として、現実の国際社会に人類の生存を脅かす戦争の危険が充満していることです。

しかし、この国際社会に存在する戦力に対応して″自衛″できるだけの戦力をもとうとすれば、それはますます強大なものにならぎるをえません。それゆえ、武力による自衛の方向は、すでに行き詰まってきているといえましよう。

私は、この問題は、国家対国家の関係における自衛の権利と、その行使の手段としての戦力というとらえ方では、もはや解決できない段階に入っていると考えます。もう一度出発点に立ち返って大きい視野に立つならば、一国家の民衆の生存権にとどまらず、全世界の民衆の生存権を問題としなければならない時代に入ったと考えます。

私はこの立場から、戦力の一切を放棄し、安全と生存の保持を、平和を愛する諸国民の公正と信義に託した、日本国憲法の精神に心から誇りをもち、それを守り抜きたいと思うものです。そして、それを実あらしめるための戦いが、われわれの思想運動であると自覚しております。