投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月12日(火)11時02分15秒   通報
そして、第二の相対が「大小相対」です。

この大小相対については、開目抄ではほとんど触れていませんが、
権実相対を論ずるなかで大小相対の意が含まれています。

大小相対とは、大乗教と小乗教を相対したものです。

一口に“仏教経典”といってもその教えはさまざまで、小乗教では戒を持ち瞑想に励むなどの修行を重ね、
苦悩の原因である煩悩を断じて、平穏な境地である“涅槃”を目指します。

しかも不幸の原因が自分自身の生命に本来的に具わっている九界の煩悩ですから、
その煩悩を完全に断じようとすれば、生命そのものを滅する意外ありません。

これが「灰身滅智」というものであり、ここに小乗教の限界があるのです。

これに対して、大乗教では小乗教のように煩悩を排除するのではなく、
煩悩が具わる生命自体に悟りの智慧を開き、煩悩を正しくコントロールして
清浄で力強い主体的な生命を築くことを教えています。

これが「煩悩即菩提」です。

この大小相対の戦いを展開したのが、ともに釈尊の弟子であった在家信者と出家僧です。

偉大な釈尊が入滅した後、ただちに五百人の弟子が集まって経典を結集し、一つ一つ慎重に吟味して
全員が一致したものを仏説として教団の共有財産にしていきました。

仏教教団が経典の結集と継承に全力を注いだのは、生前の釈尊の「令法久住」の熱誠があったからです。

彼らはその仏典を「阿含経(聖教の意)」と呼び、非常に権威あるものとして大切にしています。
二回目に行われた仏典結集は、釈尊滅後から百年後といわれています。

この頃から仏教教団は、出家僧を中心とする「上座部」と在家信者を中心とする「大衆部」に分裂していきます。

いわゆる「根本二部分裂」というものです。