2016年1月11日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月11日(月)14時28分44秒 通報 その第一の相対が「内外相対」です。 これは内道である仏教と仏教以外の諸教との相対です。 仏教がなぜ“内道”なのかというと、仏教は自身の幸・不幸の原因が自身の内にあり、 自身が自らの運命の決定権をにぎる主体者であることを明かしているからです。 これに対して“外道”といわれる諸宗教のなかには、 自身の幸・不幸に関する因果の法則を認めていないものがあります。 大聖人は 「儒教等の中国諸教の賢人・聖人たちが、 さまざまな形で巧みにその理解を立ててはいるが、まだ過去世・未来世については何も知らない。 ただ現世のことだけを知っているにすぎない。 孔子が『中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である』といって、 外典である儒教を仏法へ入る門とした。 儒教は礼儀や音楽などを教えて、あとに仏教が伝来した時、戒・定・慧の三学を理解しやすくするために、 王と臣下の区別を教え、尊卑を示し、 父母を尊ぶべきことを教え、孝行の道を尽くす大切さを教え、 師匠と弟子の立場を明かし、師に帰依することの重要性を教えたのである(趣意)」(一八六頁)と、 儒教の本質を語り、 「インドの外道で説かれた教えは、その見解が深く巧みなさまは儒教の遠く及ぶところではない。 しかし、その所説の法門の極理は、 あるいは『因の中に果がある』という決定論、 あるいは『因の中に果はない』という偶然論、 あるいは『因の中にまたは果があり、または果がない』という折衷論などである。 これらが外道の究極の理論である。 それら外道の修行では、生死の苦悩から開放されることはできない。 結局、外道というものは仏教に入るための教えであり、それが外道がもつ最重要の意義なのです(趣意)」(一八七頁) と、外道の本質を明らかにしました。 Tweet