投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月19日(月)22時09分49秒   通報
■ 周総理「皆がいるから 私もある」

名誉会長: 本当の人間性が、本当の仏法です。それ以外にない。あの周恩来総理は、「部落解放同盟」の代表が中国を訪問されたとき(一九六二年)、何と言われたか。団長が、多忙な総理が時間を割いてくれたことに感謝を述べると、こう言われたのです。
「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来ているのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(上杉佐一郎対談集『人権は世界を動かす』、解放出版社)
また総理は、あの長征のとき、自分の食糧まで兵士に分け与えてしまった。総理の一団は、四川省の湿地帯を進んでいた。その間は、食べるものもない。非常食として、牛肉を煮て乾燥させ、それをほぐしたものを一袋と、麦を炒って粉にしたものを一袋、持っていった。どこでも、水かお湯に浸せば食べられるものです。
兵士達たちは、最初、ネズミを食べたり、木の葉や草の根を食べて、進んだ。そのうち皆、栄養失調になってしまった。すると総理は「牛肉をあげなさい」と自分の分をみんなに分けてしまった。
しばらくすると、同じ状況になった。夜は元気だった同志が、翌朝には冷たくなっている、という厳しさだった。すぐに総理は「麦焦がしをあげなさい」と護衛兵に命じた。
ところが、護衛兵は皆に与えようとしない。「なぜ、やらないんだ」と総理が責めると、護衛兵は「これをやってしまったら、あなたは何を食べるんですか」と言った。
総理は、護衛兵の顔をのぞきこむように近寄って、「皆がいるから、私もあるんだ。一人でも生き残るものが多ければ、それで革命の大義ができるんだ。ぜひ、やれ」と言った。護衛兵は仕方なく、皆に与えたが、それから四、五日たって、やっと人里へ出たという。これが本当の指導者です。
本当の同志愛です。同志の絆は、親子、兄弟よりも尊い。「血のつながり」ではなく、目的を同じくする「正義のつながり」です。これが人間の人間たるゆえんです。
指導者は“皆がいるから自分がいる”のです。自分中心ではなく、だれよりも率先して、目的のために、わが身を捧げていくから指導者なのです。それが反対に、自分のために民衆を利用する指導者が多すぎる。そういう悪と戦うために創価学会はある。
そういう「民衆の敵」と戦わずして、成仏はない。仏敵という「一凶」と戦わずして、広宣流布はない。
「万事を閣いて謗法を責むべし」(御書p494)と、大聖人は厳しく言われている。

斉藤: 特に「法華経の行者」を誹謗する罪は、あまりにも大きい。
法華経には釈尊滅後の「法華経の行者」を謗ずる罪は、仏を一劫の間、誹謗し続ける罪よりも大きいと説かれています。“凡夫”である行者を誹る罪のほうが、“仏”を誹る罪よりも大きい。ちよつと聞くと不思議です。
一切諸仏を仏にした「根源」の妙法を、そのまま弘めるのが「末法の法華経の行者」なのだということがわからないと、理解できないことです。

名誉会長: その通りです。もちろん、別しては日蓮大聖人の御ことであるが、大聖人に連なる私どもも、最高に尊貴な人生を生きているのです。
戸田先生は言われた。必ずや今、「大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士が現れねばならぬ、と余は断ずるのである」
「この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従(お供をする)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである」
人間として生まれて、これほどの誇らしい「最高善」の人生はない。

遠藤: 私たち学会員は、皆、すごい使命をもって生まれたのですね、神力品のなかで、上行菩薩の活躍の姿をこう描いています。「太陽と月の光明が、もろもろの闇を除くことができるように、この人は世間の中で行動して、衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必ず妙法に到達させることができる」(法華経p584、通解)
今、日本も、世界も、先が見えないような闇が覆っています。だからこそ、私たちの出番だと思います。

名誉会長: そうです。闇が深ければ深いほど、「太陽の仏法」が光り輝くのです。

須田: チャンスですね。

名誉会長: 大勢の人々を救っていくチャンスです。
「畢竟して一乗に住せしめん(最後に必ず妙法に到達させることができる)」というのは、「広宣流布」のことです。<「御義口伝」に「畢竟とは広宣流布なり」(御書p772)と>
そのために私どもは、願って、この世に生まれてきた。その今世の使命に向かって、生きて生きて、生き抜くのです。その「勇猛精進」の心が輝いていれば、不老不死の生命力がわく。
「勇猛」とは、最高の勇気です。「精」とは無雑。精米というように、純白な、汚れない信心の心です。「進」とは無間。間断なき行動です。たゆむことなく前進また前進することです。「精進」です。「南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書p790)です。間断なく戦い続ける、その信心に「如来神力」は湧現する。
「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」(御書p790)です。
“億劫の辛労”です。一年や二年分の辛労ではない。
心をくだき、身を粉にして、広布のために苦労することです。「世間に行じて」です。「社会の中で行動する」のが神力品の付嘱を受けた地涌の菩薩です。
日蓮大聖人直結の「広宣流布の組織」で、気どらず、飾らず、苦労に苦労を重ねて生き抜いている人。その人こそ、いかなる有名人よりも尊き、末法における“如来の使”なのです。また“如来”なのです。