2015年10月22日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)16時05分32秒 通報 大聖人は手紙のなかで、中国と日本の仏教伝来の時における争いの歴史を通して、 仏法に敵対した人たちが必ず身を滅ぼしゆくことを四条金吾に教えました。 仏法は生命自体の法則を教えているがゆえに、 時とともに移り変わる社会体制の法にすぎない「王法」よりも はるかに力があり、誰人も生命自体の法からは免れることはできない事を金吾に訴えました。 そして、大聖人は 「されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり」(一一六八頁)と述べています。 これは結論からいうと、仏法における賞罰がもっとも正しい、という意味です。 この御文は一見、「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」 と矛盾する言い方に見えますが、 仏は精神の世界、思想界の「王者(指導者)」としての立場から 賞罰という概念を釈尊に引き当てて言われたものだと思います。 つまり、仏(人と法)のいう賞罰が正しいということは、賞を受けるにふさわしい人が賞せられ、 罰をこうむるにふさわしい人が罰せられるということです。 それは王法における手本とか、見せしめなどという賞罰ではなく、 個々人がその精神と行動の結果として、ひとつももらさずに受けていくものなのです。 歴史的事実を通して、仏法が必ず王法に勝つことを教えた大聖人は、さらに今、 四条金吾が直面している問題に、どのような態度で臨んでいくべきかを金吾の性格も踏まえたうえで指導していきます。 Tweet