2015年10月22日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)16時04分51秒 通報 それに対して「王法は賞罰を《本》とする」とは、どういうことなのか。 そもそも「王法(権力者が決めた法)」とは、社会的権威と、 その権威に服従する人々の忠誠心によって支えられた社会的な力の反映とも捉えられます。 王法は、その主体が王や独裁者という個人にせよ、内閣府という集団にせよ、 いずれも個の人間ではなく、集団的な力です。 つまり、王法の賞罰と対比して、仏法の原理を勝負として示されたなかに、 仏法が人間に焦点をあて、人間の力を中心にすえていくのが、仏法の基本精神だと考えます。 王法が賞罰を《本(根本)》とすることは、功ある人が賞せられ、罪ある人が罰せられることによって、 それが秩序の維持となり、人々の行動を律する規範となっていきます。 つまり賞罰とは、手本であって、全ての人々の行動に対する結果ではありません。 王法という権力が、いかに緻密に人々の上に君臨していようとも、 全ての人の行動とそれに伴う賞罰を網羅することは不可能です。 賞せられなかった人のなかにも、賞せられた人より、はるかに功ある人はいます。 反対に、罰せられた人より、はるかに大きな罪を犯しながら、罰を免れた人も存在します。 こういう現実から、 賞罰を根本(手本)として全体を総括していこうとする王法には、おのずと限界が生じてくると思うのです。 ここに「仏法と王法」の根本的な違いがあるのです。 Tweet