投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)16時04分14秒   通報

話を戻します。

では、「仏法は勝負を《さき》とし」、「王法は賞罰を《本》とする」とは、どういうことなのでしょうか。

仏法でいう「勝負」とは、権威によらず、法自体や法を持った人自身の力によって、
どちらが優れた思想で、どちらが劣った思想なのか、

また、どちらが多くの人を幸せにするために尽くしたのか、そうでないのか、を決めることだと思います。

そう考えると「仏法は勝負」ということは、一面から言えば、
自分自身が人間の本源的な生命力(仏界)をどれだけ強めていけるか――それがまず「さき」にあるということではないのか。
そして、どちらがより多くの人を激励し、幸福の軌道に導いたのか、という結果ではないでしょうか。

「仏法は勝負を《さき》とする」とは、勝負にこだわり策を弄して、
何よりも優先することではなく、結果として「勝負として必ず表れる」ということだと思います。

この《さき》とは「仏法は勝負を《前提》として」とも読めます。

短気な性格の金吾を心配された大聖人は、

「だから、短気をおこさず、誠意の戦いが、長い目でみたときに必ず勝利し、
それが結果として証明される」と言いたかったのではないでしょうか。

事実、短気な金吾が迫害にあいながらも、大事をおこさず、長期間にわたって耐え抜いたのは、

大聖人の弟子を思う大慈悲の指導があり、大聖人を生涯の師匠として信じ、
その指導を受けて立った信心が、四条金吾にあったからだと思います。

このように推察していくと、佐渡流罪を悠然と乗り越え
「流人なれども喜悦はかりなし」(一三六〇頁)と叫んだ大聖人の、大境涯が浮かび上がってきます。

この大境涯に立てば、目先の「八風(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)一一五一頁」などは風の前の塵のようなものです。

何が起ころうが、この強い生命力(絶対的幸福境涯)が、あなたにもあるのですよ、
その生命力を涌現することが信心の目的なのですよ、と教えているのが「世雄(仏)=師匠」なのです。