投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 9月24日(木)11時48分39秒   通報

また
「学生ならでは叶うべからず。九月十五日已前にいそぎいそぎまいるべし」
――学問がなければかなうことではない。九月十五日以前に急ぎ急ぎ身延に参りなさい――(通解)とありますが、

ここで言う「学生(がくしょう)」とは、学匠(がくしょう)とも言って、学問を修めて人を教える資格がある者、という意味です。

つまり、ここでの解釈は
「広宣流布の指導者たるものの資格は、教学を修めていなければならない。
なぜなら、経文を先として法華経身読こそが修行の要だからである。
9月15日から講義を開始するので、それに間に合うように身延に来なさい」となるでしょうか。

私たちに約して言えば
「創価学会のリーダーたるものの資格は、御書を身で読んでいるか否かが、その基準である。
御書根本・三代会長の指導根本とは、身で読む、つまり行動するということです。
創価学会のリーダーは、教学研鑽を怠ってはいけない、欠いてはいけない。
常に《信・行・学》に徹しなさい」となるのではないでしょうか。

これは何もグリグリが勝手に言っているわけではありません。

大聖人ご在世当時を見てみると、
日蓮大聖人以前の法華経の持経者たちの修行法は、法華経・法師品の
「妙法蓮華経の乃至一偈を、受持・読誦・解説・書写し、この経巻において敬いみること仏の如く」(妙法蓮華経355㌻)
を実践することでした。

しかし大聖人は、それら持経者とは全くちがう修行法を説いたのです。

それは「法華経を身で読む」という修行法――つまり「如説修行(仏の説いた如く修行する)」法華経の行者としての修行です。

そして、大聖人は法華経の「不軽品・勧持品」を実践の要に置き、
この二品の中で説かれた「折伏弘教」を実践していきました。

大聖人がこの立場に立つ時、受難は避けられず勧持品に説かれた「三類の強敵」との闘争は必然だったのです。

これらの受難や諸々の迫害をわが身で体験する「法華経身読」こそが、日蓮仏法の最大の特徴なのです。

仏の説いた如くの実践(行動・受難)がなければ法華経の行者とは言えません。

創価三代の師匠は、日蓮大聖人が説いた如くの実践(行動・受難)の体現者であり、
御書に説かれた広宣流布実現の証明者であり、日蓮仏法の継承者であり、現代の法華経の行者です。

所詮、実践に裏打ちされた唱題行と教学と体験がなければ、
南無妙法蓮華経の力用を万人に説き示すことなど不可能です。

口では何とでも言えます。