投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 9月24日(木)11時49分25秒   通報

さて、話をもどします。
大聖人は北陸道広布の担当者である弟子3名に対して、
なぜ「九月十五日までに急ぎ急ぎ身延に参りなさい」と招集をされたのでしょうか。

今度はこの謎を考察していきたいと思います。

その前に、日蓮大聖人の言説や行動、また、創価三代の言説や行動を研鑽して感じることは、
そこには常に強い信念にも似た生き方の姿勢が脈打っています。

私たち弟子も、その生き方に肉薄しないかぎり、
御書も創価三代の著作も、その真意を離れた読み方になると思うのです。

ましてや広宣流布の行動がない人間が、いくら御書や創価三代の著作を読んでも、
その心までは読めないし、わからないのではないでしょうか。

では始めます。
この「千日尼御返事・追伸」を書かれたのは、弘安3年7月2日ですが、じつはもう2つ同じ日に書かれたお手紙があります。
それが「上野殿御返事(熱原外護事)」と「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」の2編です。

「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」については、
皆さんお持ちの御書には「建治元年七月二日 五十四歳御作」と記載されていると思いますが、
最近の研究で「弘安三年七月二日」に著されたことがわかっています。
ちなみに真蹟は中山法華寺にあります。

この3編のお手紙を書かれた弘安3年7月といえば、熱原法難の頂点ともいうべき農民3名の処刑が行われて約9ヶ月後にあたります。

熱原法難は、弘安2年9月に起こった法難ですが、熱原郷の地が北条氏の直轄領であったために、
熱原法難後も幕府権力を背景にして、さらに大聖人門下や信徒を根絶するために追及の手をゆるめていなかったのです。

「上野殿御返事(熱原外護事)」の内容を見てみると、いまだ法難が終息したわけではなく、
熱原の関係者に対する厳しい追及が行われていたかがうかがわれます。

そして、妙法に帰依したために法難によって安住の地を失った神主とその妻子らを南条家に保護していることについて感謝され、
追及がなおも厳しくなるようならば、神主等を身延へ寄越すように南条時光に指示されています。

この神主について、大石寺・日亨は
「現今の富士宮市の浅間神社から分社した三日市場の地にある浅間神社の下級神職である」(日興上人諸伝)と記されています。