投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 9月24日(木)11時47分52秒   通報

はじめに、
ここに出てくる「豊後房(ぶんごぼう)、丹波房(たんばぼう)、山伏房(やまぶしぼう)」の3人について考えていきましょう。

とはいうものの、実はこの3人については詳しいことはわかっていませんが、
おそらく阿仏房、千日尼らとともに広宣流布のために戦っていた弟子であったことはまちがいありません。

追伸には「北陸道は豊後房が弘めていくべきである」とありますが、
当時の北陸道というのは、五畿七道の一つ「若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡」の7か国のことで、
現在の福井県から新潟県までの日本海に面する地域です。

おそらく大聖人は、豊後房を中心に3人が団結して、7カ国の広宣流布を託していたと思われます。

また、丹波房は丹波公日秀のことで、彼は大聖人の葬送の列にも連なり、墓所輪番の1人です。

山伏房の詳細はわかりませんが、阿仏房の保護を受けていたと思われます。

次ぎに
「多くの聖教を送っていただいた日記のように、丹波房に持たせ急ぎ急ぎ遣わしてください」とありますが、
大聖人は丹波房にそれらの資料を身延に持ってくるように要請したのでしょう。

大聖人が佐渡に流罪された期間は、文永8年11月から文永11年3月までの2年5ヶ月におよびます。

その過酷な佐渡での生活の中で大聖人は、重書(開目抄・観心本尊抄など)をはじめ、弟子を激励するために数々の手紙を著されました。

その際、経典や資料を送るよう、佐渡から鎌倉の弟子への手紙の中で求めています。
例えば、佐渡御書の追伸に「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬ」(961㌻)とある通りです。