投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月23日(火)19時03分24秒     通報
斉藤: 脳のこうした機能について、ホログラムの原理との相似を指摘する人もいます。
ホログラムは光の波を重ね合わせることによって作り出す三次元の立体像です。この一つのホログラムのフィルムがいくつかに切り離されても、どの一つの断片からも元の全体像を見ることができるのです。前ほど、くっきりした像にはなりませんが、ともかく全体の立体像が見えるのです。

名誉会長: 「一粒の砂に世界を見る」(ブレイク)という詩人の直観を思い出すね。

須田: 「個」の中に「全体」が含まれているという意味では、近年注目されている「フラクタル理論」があります。
これは、もともとは幾何学の理論上生み出されたもので、一部と全体が同じ形をもっているという自己相似性をもった構造をいいます。実は、この「フラクタル構造」は自然界のいたるところで見られます。人間の肺の気管支の枝分かれの仕方は、その細部を拡大しても全体と同じ枝分かれをしている点で「フラクタル」です。ほかにも、脳の中の細かな血管の分かれ方。川の支流が描き出す形。雲の形。樹木の枝分かれ。これまで、規則牲がないように思えた自然界の諸現象に、「個」と「全体」の相似性が見られるのです。
更に、自然現象に止まらず、通信のエラーや株価の変動、所得の分布といった社会現象にも「フラクタル構造」を見ることができるといいます。

遠藤: 個の中に全体があることは、十界論で言えば、十界のそれぞれ(個)に十界(全体)があるということになります。つまり、十界のそれぞれが小字宙であるということです。

須田: 十界互具ですね。これは、一個の生命に十界を具するということですが、それと同時に、宇宙生命自体も十界を具しているということです。戸田先生は、生命論に関する座談会で、次のように言われています。
「地球状態の他の星でも同じことですが、人間を感ずる、感ずるというと、ちょっとおかしいが —- 大宇宙ぜんぶが十界ですから、そこ(その星)において人間生命がそれに応じて、なんらかの形で出現する。あるいは、ここに、イヌだのネコだのいるとする。仮定ですよ、これは。そこに人間が一人もいなかったとすると、その畜生界にその人間界を感ずるのです、十界互具だから。そうすると生まれるのが人間みたいなのが生まれるのです」

斉藤: 感応の妙ですね。大宇宙そのものが十界全てを具足した当体であり、宇宙に具わる十界が、それぞれの星の状態の、それぞれの縁に応じ、また時を感じ、何かに感応して現れてくる —- 。
十界互具の法理は、進化論など生物哲学の分野にも重要な示唆を与えるものではないでしょうか。

名誉会長: 今後の研究課題でしょう。
部分即全体という諸法実相の智慧から見るならば、万物は、それぞれが全宇宙の宝をもつ尊極の存在です。
方便品に、諸法実相を言い換えて「是の法は法位に住して 世間の相常住なり」(法華経 p183)と説かれている。世間の相(諸法)は常住の妙法の姿(実相)である、と。
天台も「一色一香も中道に非ざること無し」(摩訶止観)と言った。一色一香とは、微細な物質を指します。いかなる微細な物も中道実相の当体、すなわち宇宙生命の当体だということです。
その意味で、自然も、人間が一方的に消費し支配する対象では絶対にない。自然も人間も同じ宇宙生命の部分であり全体である。自然と人間は一体です。自然を破壊することは、人間を破壊することです。

遠藤: 諸法実相の法理は「環境倫理」の問題にも直結しているわけですね。

名誉会長: そう。大聖人は「生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり」(御書 p753)と仰せです。生滅し、変化してやまないすべての現象は、それ自体、如来の神通の力であると。
変化、変化を続ける万物も、実は、そのままで常住であり、中道であり、実相であり、如来なのです。
戸田先生は言われた。
「つきつめるなら、万物の一瞬を如来とは読むべきである。 —- 吾人の生命のみならず、宇宙の万物は、一つとして一瞬も変化せざるものはない。一刻一刻に変化へ、変化へとたどるのである。されば、いかなるものでも、如々として移るので、家の如きもの、あるいは、家そのもの、そのものとして変化し、刻々に土くれとなり、塵となり、土くれは土くれ如きもの、土そのもの、塵そのものとして、また分解の作用へと進むのである。
万物を『如きもの』として観ずれば、これは仮の義で、仮のすがたなるがゆえに、実体にあらずとすれば空の義である。
もし、一瞬一瞬がそのままの存在とみるなら、それは中道である。されば、一瞬一瞬の万物も、相、性そのままが実相であるのである。われらも、この一刻一刻の生命、生活が実相で、この一瞬の実相のうちに過去久遠の生命を含み、かつ、未来永遠の生命をはらむのである。この一瞬の生命のうちに、過去久遠の生活の果を含み、未来永劫の生命の因を含む、これ蓮華の法である。
この一瞬の生命こそ、宇宙自体の活動であり、自己の生命であり実在である。この宇宙の一瞬一瞬の活動は、時々刻々に変化した種々の現象として表現し、万象ことごとく活動のうちに変現する。これを、『神通の力』というのである。だれが、どういう力を与えるのでもない。それ宇宙の万象自体が、あらゆる他の活動を縁として変貌自在するのが、宇宙の実相である」
戸田先生の諸法実相観が述べられています。先の法華経、天台、そして大聖人の御言葉と寸分もたがわない。よくよく味わい、会得していくべき言葉です。

遠藤: この戸田先生の言葉では、物質も生命も同じように扱っているように見えますが、どう説明したらよいか少し困ります。仏法でいう「諸法」というのは、物質も生命も含まれるということは分かるのですが、通常の考えでは、両者は全く違うものですから。

名誉会長: 大事な点だね。諸法とは現象と訳せる。仏法では、物質をも、固定化した“もの”ではなく、生滅変化する現象、すなわち“こと”の次元で見ているのです。生命も同じく生滅変化する“こと”です。
“こと”というのは、私たちが普通、物を見る時のように「有る」と言って固定化して見ると間違いになる。だからといって「無い」のでもない。「有」でもなく「無」でもない。しかし場合によっては、「有る」と言ってよい時もあるし、「無い」と言ってよい時もある。こう見るのを「中道」といいます。「有」「無」のいずれにも、とらわれないので「中道」です。ありのままに正しくとらえた「実相」と同じです。

遠藤: “もの”と“こと”という二つの次元を立て分けて考えると分かりやすいですね。戸田先生の言葉に出てきた空・仮・中の三諦にも応用できそうです。
物質でいえば、“こと”であって“もの”ではないという真理(諦)を「空諦」といい、しかし仮に“もの”として見ることもできるので「仮諦」といい、どちらにもとらわれないのを「中諦(中道)」という。天台は、この三つの面から総合的に諸法の実相を把握し、欠けることがないことを「円融の三諦」と呼び、これをもって「実相」としています。

名誉会長: すべては“こと”であり、生住異滅、つまり生成し、安定し、変化し、消滅していくのです。その一時の安定期の姿を、物質については仮に“もの”と言っているわけです。