投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月24日(水)10時06分35秒     通報
須田: ニュートンの力学を中心とする古典科学は、“もの”中心の見方で成り立っています。例えば、物体という実在があって、二つの物体の間に重力が働くというのがニュートン力学です。これが、多くの物理現象を見事に説明したので、生命についても“物質にすぎない”“機械にすぎない”というような見方が支配的になりました。

名誉会長: ただ、そのような見方は、本来、科学そのものにはないはずだね。

遠藤: 科学そのものではなく、科学信仰に由来するのだと思います。物事の一側面をとらえて、すべてが“それにすぎない”と主張する態度を「還元主義」と表現する人もいます。全体を部分に還元し、部分観を全体観に押し広げようという誤った態度です。

斉藤: この「…にすぎない」という還元主義の見方が、現代人の生き方に暗影を投げかけ、希望を奪い、無力感を増長している一因になっているのではないでしょうか。

名誉会長: 科学信仰に陥らないためには、生命の全体観を示した真の哲学が必要でしょう。科学には本来、部分観を部分観として示す節度があると思う。また、真実に迫ろうという要求が科学の根底にはあるから、それまでの部分観が行き詰まれば、それを打ち破って、より深く実在に迫る創造的な新理論が発見される。つまり“科学革命”がなされる。

須田: 科学革命は、個人の創造的な力でなされるという研究もありました。

名誉会長: 当然、そういう面が大きいでしょう。人間生命こそ創造性の源ですから。アインシュタインなどは、そのよい例だと思う。戸田先生は、来日したアインシュタインの講演を、牧口先生とともに聴いたことを生涯の喜びとされていた。
アインシュタインは自分の真理探究の情熱を支えたものを「宇宙的宗教感覚」と表現しています。それは、この宇宙を「一個の意味のある全体として体験したい気持ち」であり、自然の世界や思考の世界に、崇高さを感じ、驚くべき秩序を感じとる感覚です。彼は、この「宇宙的宗教感覚」は、仏教に特に強く表現されていると書いています。
アインシュタインは、こういう立場から、科学と宗教は対立するものではないと主張した。科学探求の「動機」が宗教性にあっただけではなく、科学の「結果」もまた、万物の妙なる法則に対して人間を謙虚な態度にさせる、と。
「この態度は、その語の最高の意味において、宗教的であると私には思われる。したがってまた、科学は宗教的衝動をその擬人主義という夾雑物から純化するばかりでなく、われわれの人生を宗教的精神によって理解するのにもまた貢献するものであるように私には思われる」(「科学と宗教」。湯川秀樹監修、井上健・中村誠太郎編訳『アインシュタイン選集3』共立出版)
アインシュタインは、科学と宗教が対立するとすれば、その主因は人格神の概念にあると考えていた。彼の言う「擬人主義という夾雑物」は、人格神の概念のことです。
仏教のような「生命の法への謙虚な探究」は、彼の見方からすれば、科学的であり、同時に宗教的でもある。
仏法の立場から端的に言えば、仏法は生命の全体を対象にした総合知であり、科学は生命の「仮有」の面を対象にした「仏法の一部」とさえ言えるのではないだろうか。ゆえに両者は、対立するものでは絶対にない。一切世間の善論は皆これ仏法なのです。
戸田先生は「科学が進めば進むほど、仏法の正しさが証明されるようになる」と、よく言われていた。
もちろん、証明といっても、両者は次元も違うし、アプローチの仕方も違う。“科学の言うことは間違いないから、科学の支持する仏法も間違いない”ということではない。科学の知見は日進月歩で変化しているし、そうした相対的な科学の知見によって、仏法の絶対的な真理の真実性が左右されるものではありません。
ただ科学は、進歩すればするほど、仏法と見事に調和することが分かってきた。この相似性(アナロジー)が、現代にあっては、仏法の卓越性を類推させる強い動機になるということです。例えばアインシュタインの相対性理論は、“こと”中心の世界観に極めて接近したものだと思うが、どうだろうか。

斉藤: そうだと思います。相対性理論は、空間の三次元と時間の次元が融合した「時空」という四次元の“場”において、すべての物理現象をとらえようとするものです。
それまで、ニュートンが打ち立てた古典力学では、「絶対時間」「絶対空間」といって、時間と空間とは互いに独立に存在するものとしてきました。自動車に乗っている人と歩いている人とで時計が早くなったり遅くなったりするわけはないという、私たちが日ごろ抱いている感覚からも当然とされていたものでした。ところが、相対性理論の登場によって、高速で運動している空間ほど、観測者に対して時間が遅く経過するということになった。
いわば「時空不二」です。両者は切り離せない。双方の「関係(こと)」によって、双方の現れ方が決まってくるということです。

須田: また、量子というミクロの範囲に限っていえば、物体の運動量を正確に計ろうとすると、その物体の位置は正確に計れなくなるというように、計測者の存在が物体の運動に大きく関わるということが分かりました。
これはハイゼンベルクの示確定性原理」と言われるもので、またしても、近代科学の中心軸にあった“主観と客観の分離”という原則も打ち破られたのでした。「主客不二」ですね。観測とは、観測する側とされる側の「関係(こと)」の問題であるということになったのです。

名誉会長: “もの”中心の科学が、分子から原子へ、原子から素粒子へと、宇宙を構成する「基本的要素」を探究した果てに見たものは、素粒子が「粒子」であり同時に「波」であるというパラドックス(逆説)であった。
これによって科学は、それまで固定的にとらえていた“もの”の世界を、実は“もの”自体の変化の様相や、“もの”と“もの”の関係性としてとらえざるを得ないことに気づいたのです。すなわち“こと”の世界です。また観測者と対象との相互関係も考えなければならない。
こうして現代物理学が描く世界像は、それまでの「無数の物質の集まり」から「無数の関係の織物」へと劇的に変化したわけです。この世界観は、まさに大乗仏教の洞察と共鳴する。