2014年9月7日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 7日(日)14時54分16秒 返信・引用 仏道修行を妨げる「魔」は、どんな特徴をもっているのか――。 このことについては、前にもお話ししたが、ここでふたたび御書を拝し、心に刻んでおきたい。 大聖人は、南条時光に、警告の意味をこめて、次のように仰せである。 「大魔のつ(付)きたる者どもは一人をけうくん(教訓)しをと(落)しつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」(御書一五三九頁) ――大魔がとりついた者たちは、一人を教訓して退転させたときは、その一人をきっかけにして多くの人を攻め落とすのである――。 「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(同頁) ――日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などといった者たちは、欲深く、心は臆病で、愚かでありながら、しかも自分では智者と名乗っていた連中だったので、ことが起こったときに、その機会に便乗して、多くの人を退転させたのである――。 大聖人が、退転した僧侶や、在家の大先輩たちを例にあげられているように、「魔」といっても、いわゆる外の世界からだけ競うものではない。この原理は永遠に不変である。 また「邪法」と戦うのであれば、世間には多くの「邪法」があるのに、それらには目もくれない。 むしろ、外面は立派そうな大聖人門下の姿をしながら、心の中では、真の仏子の集いを切り崩すことに喜びを見いだす――「大魔」のつきたる者の残忍な、どす黒い心根である。 彼らは、大勢の前で堂々と正面きって自説を主張することはしない。 実情を知っている人がその場にいれば、たちまちウソが露見するからである。 先の御文の前段では「たばかり」(謀(はかりごと))と断じられているが、彼らは陰のほうでこっそり策謀をこらす。 そしてまず「一人」を退転させる。それを足がかりに広げていこうという計略である。 こうした人間は、まさに《泥棒》のような、いわましい存在であると、仏法では説く。 性格的には「欲が深い――少欲知足でない」 「臆病である――権力とは戦わない」 「愚かで物覚えが悪い――信心の《心》が身につかない。またグチっぽく、信念がない」 「にもかかわらず、うぬぼれが強く、自分は智者とおごり、いばっている。尊敬されたがる」。こういう者があぶないとお示しである。 こういう人間は、ふだんから自分の信念で行動しているわけではない。何かあると、時の勢いに便乗して、蠢動(しゅんどう)(うごめく)し始める。状況が変われば、また、手のひらを返すように急変する。信じてついていった人こそ哀れである。 ――こうした特徴のある者は「大魔」の使いであるからだまされるな、との大聖人のお教えである。 さらに御書を拝したい。 「正義」が明白であるにもかかわらず、どうして、その正義を認め、従うことができない人々がいるのか。 その理由の一端について、大聖人はこう仰せである。 「少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ、設い後に道理と念うと雖も或は名利に依り或は檀那の帰依に依つて権宗を捨てて実宗に入らず」(御書四五頁) ――自分の邪儀に少しでも合わない経文があると、道理を曲げて、なんとか筋道をとおそうとし、無理に自分の邪義に合わせる。たとえ、あとから経文の内容が「道理である」と心で思っても、あるいは自分の名声や利益のため、あるいは自分に帰依している檀那の手前もあって、誤った教えである権宗を捨てて、正しい教えである実宗(法華経)に入らない――。 これは、権経の人々が、我慢偏執のために、法華経を持てない姿を描かれた御文である。 都合の悪い経文があると、へ理屈をつけて、自分の邪義に無理やり合わそうとする。 内心では「正しい」と思っても、名利や見栄にひきずられて、勇気をもって「正義」を支持することができない――。 時光に警告された「大魔」の使いも、正しいものを正しいと認めたがらない点では、これ以上にかたくなである。 そして、このことを指摘されればされるほど、ますます妬みと憎悪の炎を燃やし、なんとかその思いを晴らそうと悪逆の企てをめぐらすのである。 ゆえに大聖人も迫害の連続であられた。私どももまた、真の門下として、その誉れの道を進んでまいりたい。 【「長野県婦人部の日」記念研修会 平成三年七月二十六日(全集七十七巻)】 Tweet