2014年9月7日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 7日(日)14時54分16秒 返信・引用 人々は彼のことをもう笑わなくなったかどうか、それは定かではない。ともあれ、ことわざにもあるように、「人の口に戸は立てられない」ものである。鼻が長ければ長いで悪く言うし、短くなればなったで陰口をきく。 貧乏であれば蔑むし、裕福になれば妬む。不幸な人が集っていると罵って、皆が幸福な集いに変わると「何かごまかしがあるのではないか」と勘ぐる。 どちらにしても気に入らないのである。明確な基準があるわけではなく、その場かぎりの「感情」だからである。私どもも、このとおりの、ありとあらゆる中傷をあびてきた。 こうしたものに振りまわされていたら、『鼻』の僧のように、自分が惨めになるだけである。 「戦わない人」「行動なき人」は、他人の不幸を待ち望む。 そうした妬みは、もっとも非生産的な感情である。 無限に価値を創り、価値を広げゆく、わが《創価》と正反対の卑しい心なのである。 まして、意図的な悪口を、見破れないようではしかたがない。 これに対して「信念ある人」「行動する人」は、皆の幸福を心から願い、心から喜ぶことができる。みずからが悩み、動き、戦うゆえに、人の心がわかる。共感できる。 また「自分自身の人生を生きている」ゆえに、他人と比べて一喜一憂する必要がない。 人が幸福になったから自分が不幸になるわけでも、人が不幸になったから自分が幸福になるわけでもないことを、よく知っている。むしろ友が幸福になるほど自分も幸福になるのが、真の《人間の絆》である。そうした友がいれば、不幸すら半分になるであろう。 「うわさ」とは――と、あるアメリカの作家は、こう定義した。 「人の評判を抹殺)しようとする暗殺者たちが好んで用いる武器」と。 《他人がほめられることを我慢できない》人がいるものだ。 そこで「うわさの弾丸」を撃つ。「暗殺」だから姿を見せない。 つまり、はっきりと根拠を示さない。出所不明、真偽不明のうわさだけを独り歩きさせる。 まさに、黒い闇の中から放たれた凶弾そのものである。しかも被害者のほうが悪く言われる。こんな道理に反したことはない。 いったい撃ったほうが悪いのか、撃たれたほうが悪いのか。凶弾に倒れたリンカーンやケネディが悪くて、暗殺者のほうが正義なのか。道理は明白であり、カラクリも決まりきっている。ゆえに智者は、根拠のない話に耳をかさない。むしろ、そうした話をまき散らす人々の心根を哀れむ。 中国の格言に、「流言は智者に止まる」と――。つまらないうわさ話は一般人の間を流れるが、智者のところで止まって、それ以上伝わらない、という意味である。 「情報化社会」が、傍観者の利己主義に侵されると、人権無視の「うわさ社会」「嫉妬社会」へと変貌してしまう危険性が高い。「流言」の本質を見抜き、「流言」に動じない智者の集いであってこそ、「情報化社会」を幸福な「知恵の社会」へとリードしていけるのである。 ともあれ、われらの広宣流布の舞台は、善きにつけ悪しきにつけ、こうした「人間」の世界である。 他者のために献身しゆく「人間」と、他者の足を引っ張ろうとする「人間」が共存する世界である。 また、そこに織りなされる赤裸々な人間心理を深く、痛切に学びゆける、民衆の「人間学の大学」である。 たとえ低次元ではあっても、世の中が、そうした低次元のことで動いているのは事実である。 とくに日本の社会は、あまりにも低次元のことが横行する湿地帯のような側面があるとは多くの識者の指摘である。その現実は現実として、私どもは賢明に知りぬいておくべきであろう。 Tweet