投稿者:大仏のグリグリのとこ   投稿日:2015年 5月19日(火)11時32分17秒     通報
さらに、僭聖増上慢は
法華経の行者に対して「汝らは皆、仏なんだ」と嘲笑します。

彼のこの言葉が、法華経の行者をあざける言葉であることに、一つの意味があります。

つまり、法華経の行者が「あらゆる人は成仏できる」と説くことに対して、

僭聖増上慢は「それではお前たちは、自分らが皆、仏だと言うんだな」と反発するのです。

その背景には、法華経の作成された当時は、仏とは一般人からかけ離れた「尊極の存在」であり、
法華経などという新奇な経典を説いて回っている、社会的な立場もない卑しい人間が
仏であるはずがないという観念が働いたものと考えられます。

この世で仏であるのは「釈迦仏一仏」のみであり、仏弟子は声聞の阿羅漢の位に成るのが精一杯である
とする「小乗仏教者」からは、一切衆生の成仏を説く「法華経」は到底容認し難いものと見られていたのでしょう。

「お前たちのような者が仏だと言うのか。冗談ではない」という激しい反発が、
法華経の行者に加えられたことをこの言葉は示唆しています。

というより、
そもそも万人成仏を説く「法華経・御書・先生指導」を実践していれば、
人を子分や道具のように利用するはずがありませんし、できません。

法華経を弘めていった人々には、
法華経こそがあらゆる人々を仏へと高めていける最高・無上の教えであるとの確信がありました。

法華経を弘め、守ることが一切衆生の成仏の道を守ることであり、
それは自身の身命以上のものであると受け止めたと思います。

法華経の行者の中に命をなげうってでも経典を守るという信念がなければ、
厳しい迫害に耐えて法華経を伝えることは不可能だったと思います。