投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月 9日(土)13時44分19秒     通報
池田大作全集84巻より
5・3記念の集い、第一回首都圏総会、第九回東京総会 (1994年5月7日)①

牧口先生「難を恐れず大聖人の正義に殉教」

「創価学会の日」、おめでとう!(拍手)
皆さま方の大闘争と信心と団結で、すべてを乗り切って、未曽有の「五月三日」を迎えることができた。心から感謝申し上げたい。ありがとう!(拍手)

ここ東京牧口記念会館は、晴れた空のもと、″花と緑に囲まれたパレス(宮殿)″のようである。本当に素晴らしい。(拍手)

創価学会の前身である創価教育学会。その最後の総会は、いつ行われたか。

それは昭和十八年(一九四三年)の五月二日であった。
東京・神田の教育会館に約七百人が出席。これが戦前の最後の総会である。

牧口先生、戸田先生の逮捕の二カ月前。すでに当時、学会には、権力による弾圧の魔の手が次第にのびてきていた。それでも勇敢に総会を開催した。弘教をし抜いた。今とは比べものにならない、厳しい状況のなかで──。

牧口先生は、この最後の総会においても、日蓮大聖人の仏法の正義を、高らかに獅子吼された。
じつは、この総会があった五月ごろにも、すでに牧口先生は、約一週間にわたって留置され、取り調べを受けられた。逮捕される前、すでに″前戦″は始まっていたのである。

これに対し宗門は、卑劣にも軍部に迎合し、世間に迎合して学会を圧迫した。今の宗門も、いわばその延長である。

総会の翌六月、宗門は、学会に対して神札を受けよと迫った。だが牧口先生は、私たちの師匠は、厳然とはねつけられた。

″大聖人の教えと違うではないか!
我々は大聖人の教えを信奉しているのだ″
──こう決然と戦い、殉難の道を選ばれたのである。

その時に妥協すれば、難はなかったであろう。しかし絶対に妥協されなかった。ここが重要なところである。

御聖訓「すこしも・おずる心なかれ」

大聖人は「兄弟抄」に、こう仰せである。
「いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず」
──いよいよ、恐れる心根や姿があってはなりません──。

「 がうじやう強盛 に はがみ切歯 をして たゆ弛 む心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うち ふるまい振舞 ・いゐしがごとく・すこしも・ をづ畏 る心なかれ」

──信心強盛に強く歯をくいしばり、決してたゆむ心があってはなりません。たとえば日蓮が平左衛門尉の所で堂々と振る舞い、言ったように、少しも恐れる心があってはなりません──。

「なにと・なくとも一度の死は一定なり、 いろ色 ばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」

──特別なことがなくても、人間は一度は死ぬことが決まっている。したがって卑怯な態度を見せて、人に笑われてはなりません──。

平左衛門尉といえば、当時の最高実力者である。封建時代ゆえに、今とは比較できない強大な権力を振るっていた。そのような権力者に対しても、大聖人は恐れなく振る舞われた。そのように、断じて何ものも恐れてはならないとの御命令である。

悠然たる御本仏の御姿である。しかも門下の人数も少ないなかで
──すさまじいまでの強き強き信念。これが真実の信仰の世界である。

宗門は、この明確な大聖人の御聖訓に違背した。完全なる裏切りであった。今も、人々から馬鹿にされ、″笑われる″姿となっている。

牧口先生は、この御書に仰せの通り、少しも恐れなく、真実の大聖人の正統の誉れを永遠に刻まれたのである。ここに日蓮仏法の魂魄があり、学会精神があり、広宣流布の精神がある。この後に続いていける私どもは、何と幸せであろうか。(拍手)

この牧口先生のお心を、そのまま受け継がれて、戸田先生は、前代未聞の弘教の大闘争を開始された。

その本格的な出発が、第二代会長に就任された昭和二十六年(一九五一年)五月三日である。

あの創価教育学会の最後の総会から八年目のことであった。

「五月二日」に終わり、「五月三日」に始まる──仏意仏勅の教団ゆえの、不思議なる妙法のリズムである。
戸田先生「学会員の勇気に勝るものはない」

会長就任後まもなく、戸田先生は「開目抄」の一節を拝して、厳然と言われた。
大聖人の重書を根幹に拝しての、戸田先生の雄叫びであった。

「『われわれ学会員は、大聖人の大慈悲には、千万が一分も及びませぬが、大聖人を信じまいらせ、折伏への勇気のすぐれたることは、迹化の菩薩は恐れをもいだくであろう』との大確信こそ必要である」(『戸田城聖全集』第一巻)と。

勇気ある「学会精神」「弘法の精神」、これに勝るものはない。他の菩薩も、いわんや有名や権威の人間も、とうていかなわない。こう教えられたのである。

学会員こそ、勇気ある、世界平和への第一の先駆者である。(拍手)