2015年4月24日 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 4月24日(金)10時59分43秒 通報 おはようございます。 会長辞任の時のことを知る人は、後世に語らなければならないと思います。学会最高幹部は、ずーっと勇退と言ってきました。 名誉会長になっていただいた。と。 この体裁できたんですね。 しかし、ある時から池田先生は、あれは勇退ではない。辞めさせられたんだ。 それから、会長辞任になりました。 辞任もへんですね。先生が辞めたくて辞めたのではなく 北条、秋谷、その他の最高幹部が引きずりおろした。 先生が会長では困るからです。 そこには、池田先生を師匠とする信心がありません。 たんなる会長としか見ない。 先生は60歳までは生きられない。そうした覚悟で闘われてれていた。戸田先生が58歳でお亡くなりになられたのですから。 随筆にも、幾つか記載があったかと思います。 宗門に対しても、戸田先生への仇討ちについてもです。 だから、7つの鐘の最後である54年とは、 先生にとっては、ある意味で決着をつける年であったと思います。 会長を次の世代へとは、その意味で決着をつけて 次の世代の育成にあと数年掛けて、そこで人生を全うしようとされていたのではないか。そのような決意と覚悟であったのではないでしょうか。 しかし、先生を守るべく最高幹部や青年部はそれができなかった。迹門の弟子だった。 池田先生の戦いは、ここから第2章がはじまります。 本門の弟子の育成です。 また、時間があれば続きを書きます。 ******************* 昭和54年4月24日(火)聖教新聞 投稿者:虹と創価家族 投稿日:2015年 4月24日(金)08時15分25秒 54年当時、自分の義母は配達員になりたてで、「先生のお役に立てる」と希望に胸をふくらましていたそうです。 そして配る新聞が「会長辞任」の新聞。 悔し涙を浮かべながら「どうにもならない憤りを抱えての配達でした。」と語ってくれます。 当時を知る方は、54年4月24日の聖教新聞を覚えているのではないでしょうか。 第一次宗門問題は、創価学会が先生を守れなかった歴史的事実。 いや真実は、現場会員にわからないように当時の最高幹部が、先生を辞任に追い込んだ歴史です。 その当事者が、秋谷議長と原田会長。 この事実を会員は知らなくてはいけない。 Tweet