2015年3月13日 投稿者:河内平野 投稿日:2015年 3月13日(金)13時16分34秒 通報 誰もが「絶対に不可能だ」と諦め、悲壮感が社会を暗く覆う時──その時こそ、壮年が奮い立つのだ。 18世紀後半、イギリスの植民地だった当時のアメリカ。 不満は高まっていたものの、宗主国には従うしかない──そんな「常識」がはびこっていた。 その閉塞感を打ち破り、「独立」と「自由」こそが、 新しい、そして正しい「常識」だと喝破したのがトマス・ペインであった。 1776年、1冊のパンフレット『コモン・センス』で、闘争の烽火《のろし》をあげる。 「これまでの王冠をかぶった悪党全部よりも、一人の正直な人間のほうが社会にとってずっと尊いのだ」 「おお! 人類を愛する諸君! 暴政ばかりか暴君に対しても決然と反抗する諸君、決起せよ!」 その叫びは、市民の魂に火をつけ、勝利への息吹を呼び覚ました。 独立への道を大きく開いていった。 当時、彼は不惑(40歳)を迎えようとしていた。 今、同年代の“ヤング壮年”も大勢おられよう。 ペインは、生涯を正義と自由の闘争に捧げ、不当に投獄もされた。 その強さは何であったか。 それは、無名の庶民であったことだ。 職人の家に生まれ、妻に先立たれ、事業も失敗。 社会の底辺を生きた。 それだけに、大衆の思いや感情を敏感に呼吸していた。 そして自ら義勇兵に志願し、一兵卒として、独立の戦いに加わった。 真の丈夫《ますらお》は、周りを鼓舞するだけではなく、勇んで窮地の中に飛び込み、誰よりも苦労するのだ。 彼は綴った。 「われわれの偉大な力は数にあるのではなく、団結にある」 一人が立ち、年配の友も、若き青年も続いた。 「常識」の壁を打ち破り、「不可能」を「可能」へと変えていった。 完勝への結束は、常に壮年の勇気と行動力によって完成へと導かれるのだ。 富士の如く堂々と 明治維新の大功労者で、勝海舟らと共に“幕末の三舟”と讃えられた山岡鉄舟は、埼玉にも縁《えにし》が深い。 西郷隆盛に直談判し、江戸の無血開城の道を開いた英傑である。 10代で両親と死別、社会の激動、心の葛藤──人生の春夏秋冬を越えた鉄舟は、壮年期、白雪を頂いた富士の峰を仰ぎ、詠んだ。 「晴れてよし 曇りてもよし 不二の山 元の姿は 変わらざりけり」 世間の毀誉褒貶が何だ。 あの揺るがぬ富士の如く、わが使命の道を、堂々と進むのだ──。 そう決めた鉄舟の心は、何事にも微動だにしない。 後進の指導者の育成を、自己の研鑽と修行を、死ぬ間際まで怠らなかった。 西郷隆盛は、鉄舟を念頭に語ったという。 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と。 名聞名利をかなぐり捨てる人。 自ら決めた使命に、真っ直ぐに生き抜く人生。 「心の財《たから》第一なり」(御書1173?)との信念の生き方は、永遠に色褪せぬ、黄金の輝きを放つのだ。 青年の情熱は尊い。 しかしまた、40歳、50歳、60歳、70歳、さらに80歳と年輪を刻みながら、なお消えることなき情熱こそ、本物である。 絶対に、勝利の先駆を切ってみせる! 私自身が創価学会なのだ!──そう決意し、行動する一人がいる限り、学会は盤石だ。 今も忘れぬ光景がある。 第3代会長に就任して間もない頃の嵐の日であった。 吹き飛びそうな大田区小林町の私の家に、一人の丈夫が駆けつけてくれた。 「先生、大丈夫ですか! 私がお守りします!」と。 なんと埼玉からの長い道のりを、自転車を走らせて来てくださった。 今も、戦う壮年部の精兵として、あの時と同じように、目を輝かせ、広布の最前線を駆け回っておられる。 健康で 長寿の光道《こうどう》 共々に 生きなむ 開かむ 智慧の長者は かつて、わが大阪の壮年部に贈った一首である。 師匠が開いた道がある。共に歩む仲間がいる。最高の充実がこの道にある。 フランスの作家サン=テグジュペリは言った。 「みんながわたしを信頼している。歩かなければ、わたしは卑怯者だ」 師と共に、また真友と共に進む人生には、「報恩」という、決して曲がらぬ心の芯が通《とお》っている。 広宣流布とは、全人類を幸福にし、平和を築きゆく大偉業だ。 人生を懸けて悔いなき、最高にして名誉ある大目的ではないか。 進もう! 師弟不二の王道を! 登ろう! 未踏の広布の王者の山を! 日興上人は大聖人の不二の弟子として、ただ一人、師の教えを寸分違わず語り、叫び、弘め抜かれた。 「日興遺誡置文」を遺されたのは、88歳の時であられた。 求道の阿仏房は、高齢を押して、はるばる佐渡から身延の大聖人を訪れた。 老いるほどに若々しく、「仏法は勝負」の気概で戦い抜いた。 わが多宝会、宝寿会、錦宝会の皆様方の姿と、美事なまでに重なる。 真価はこれからだ中国の大詩人・杜甫は、詠じた。 「男児 功名遂ぐるは 亦た老大《ろうだい》の時に在り」 (男の仕事の完遂は やはり年とってからだ) 人生の真価は、最晩年をどう仕上げたか、何を成し遂げたかで決まるのだ。 大聖人は57歳の御述作に、「此の大法のみ一閻浮提に流布すべし」(同1489)と宣言なされた。 牧口先生が入信されたのも57歳の時であった。 その無上の喜びを、「言語に絶する歓喜を以て殆ど60年の生活法を一新するに至った」と記された。 戸田先生が牧口先生に出会ったのは19歳。 そして獄中で師の逝去を知らされたのは、45歳になる時であった。 この時、地涌の菩薩の使命を胸に秘め、「妙法の巌窟王」となって、必ず師の正義の仇討ちをすると誓われた。 ここから、本当の戦いが始まったのである。 Tweet