投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 3月 1日(日)13時09分7秒  

第11回創大祭記念講演 (1981.10.31)

また、フランスにおいてはレジスタンス運動で知られる歴史の示すように、その中から多くの人物が輩出しております。その一人として、″民衆の詩人″として、今なお世界の人々に親しまれているビクトル・ユゴーを選ぶことができるでしょう。ビクトルとは勝利の名である。いかなる迫害にも屈せず、 百折不撓ひゃくせつふとう の魂を燃やしながら人間と庶民への賛歌をうたい、守り抜いた剛毅な人物といえるでありましょう。

彼ユゴーは、ニジュウ歳の若さで「ロマン派の 驍将ぎょうしょう 」と言われた詩人であった。更に一八四八年の二月革命の時には、かのユゴーは既に四十六歳になっていました。その年に彼は政治の場に登場していくのであります。そして、詩も小説も中断しさってひたすら政治に没頭していくのであります。ここで彼は、貧困の解決と、教育権の独立と、自由民権の擁護などのために火を吐くような弁舌をもって戦った。フランス上院には、現在もその活躍を記念して、彼の座っていた議席に横顔を彫った金の銘板がはめこまれているのを、本年六月、私も感慨深く見学したものであります。

しかし、彼の理念と行動は、手練手管に長けた政界の容れるところとならず次第に孤立していったのであります。五一年の議会でのナポレオン三世への弾劾演説を最後に、ついに亡命を余儀なくされてしまう。その時、彼は「喜びは、苦悩の大木にみのる果実である」とうたい、再びパリの地を踏むまで、亡命生活は実に十九年の長きにわたっているのであります。

しかし、その中にあってユゴーの闘魂は少しも衰えなかった。否、亡命の地で弁舌をペンに代えて、ますます盛んに燃え上がっていったのであります。ナポレオン三世の圧政を痛烈に批判、風刺した『小ナポレオン』『懲罰詩集』、世界的な名著である『レ・ミゼラブル』等々、ユゴーの作品の大半は、この亡命期に生まれていったのであります。最後の小説『九十三年』の結構が練られたのもこの時期であります。

「人生は航海なり」と言ったユゴーの生涯は誠に逆巻く怒濤を乗り越え乗り越え、大いなる劇にも似た振幅を描きながら、ただ前へ前へと進むことしか知らなかったのであります。彼が死して後大衆にたたえられながら国民的英雄としてその遺骸はパンテオンに納められたのであります。その名のとおり″勝利の人″になったのでありました。

先駆者の栄光と嵐の道程

ユゴーの性格が剛毅で貫かれているとすれば、同じように迫害と亡命生活を送ったジャン・ジャック・ルソーは、どちらかといえば優しさの人であったと、私はみたいのであります。
ルソーの哲学は″二十世紀の予言者″とまで言われているのであります。その先見性のゆえに、同時代のありとあらゆる思想家、哲学者、学者達をはるかに超えて″フランス革命の生みの親″とまで言われているのであります。私は、その先見性を支え、地下水のごとく流れているものこそ、人間、特に弱い立場の人々への思いやり、優しさであると思っております。

彼の書いた教育学や政治学、文学は、古典として、二百年たった今日もなお不滅の光を放っている。その代表作である『エミール』や『社会契約論』を見ても、徹底した自然や人間性への連環的な深き洞察は見事であると言わざるを得ません。その優しさゆえに、彼ルソーは、独断的なキリスト教哲学には誠に批判的となり、当時の教会や政治権力に対して、日増しに激しい攻撃を繰り返していったのであります。

ここで特筆すべきことは、一七六二年の四月に『社会契約論』を著し、その一カ月後には有名な『エミール』が相次いで出版されているということであります。しかしその結果、ルソーに逮捕状が出され、五年間という長い逃亡生活、亡命生活を強いられていったのであります。更にまた、彼が愛し市民権を持っていたジュネーブの行政委員会では、この二つの著書を焚書(書籍を焼き捨てること。学問思想弾圧の手段)に処するという、誠に恐るべき決定さえなされていったのであります。

このようにしてルソーの晩年は、教会や権力に追われながらヨーロッパの各地を転々としていく、誠に不遇な色に塗りつぶされていくのであります。思えばこれもまた、先駆者という宿命に負わされた栄光と嵐の道程と言えるかもしれません。やがてフランス革命が起こると、ルソーの遺骸もまた、国民的英雄として、のちにユゴーが眠った、かのパンテオンに改葬されたのであります。

続いて現代絵画の父と言われる、ポール・セザンヌの一生を考えてみたいと思います。彼はまさしく、世界の画壇史に輝きわたる歴史を打ち立てた人であります。しかし、その一生のほとんどは世間の無理解と嘲笑と侮辱のなかで過ごしたといってよいでしょう。

彼セザンヌは、南仏の古都エクス・アン・プロバンスに生まれる。やがて、パリに出て絵を模索し続けます。当時のパリは、新しき時代の潮流として官学派のアカデミズムに対抗する動きがあった。そこでセザンヌは、のちに、いわゆる印象派の先鞭を切りながら彼と心情をともにするモネやピサロ、ルノワールらと画論を交わしていくのであります。

やがて一八七四年には、第一回の印象主義展覧会が開かれた。セザンヌは三点を出品しております。しかし新聞報道はその絵を「錯乱によって動かされて描く狂人の絵」とまで酷評したのであります。更に三年後、彼、セザンヌは今から振り返れば印象派の最高に開花した時期の展覧会に、十五点の絵を出品しております。しかし展覧会への非難は相変わらずであり、特にセザンヌの絵には、前より更に手ひどい嘲笑が集まり、「ヴイクトル・ショケの肖像」については「狂人が狂人を描いたような絵である」とまで、毒を含んだ批評が書かれたのであります。