投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 3月 1日(日)13時10分29秒  

第11回創大祭記念講演 (1981.10.31)

人一倍、感受性の強いセザンヌの心は深く傷つき、失意のなかにあって再び南仏の故郷笙戻り、″エクスの画家″として頑固なまでに自己の芸術の精進を続けとおしていったのであります。

彼は一九〇六年、六十七歳でこの世を去っていった。それも雨の中で、自らの絵を描き続けながら倒れていったのであります。
果たせるかなセザンヌの没後、パリではセザンヌの影響を深く受け継いだピカソなど立体派と呼ばれる世界的な画人達の動向が脚光を浴び、現代絵画の見事なる開花を迎えていったのであります。私も本年六月、彼の故郷であるエクスの町を訪ね、彼が描いたサン・ビクトワールの山を朝な夕な眺めながら、嘲笑と罵声をしのびながら描き続けた彼の執念の姿が、懐かしく二重映しになったのであります。

ともあれ苦難の嵐の中にあって、営々として一つの信念の道を歩みゆくことは、誠に容易なことではないと改めて痛感したものであります。

そこで、私は最後に、今日の世界の形成に大いなる影響を与えた人物の一人、レーニンについても、語らざるを得ないと思うのであります。
彼、レーニンの兄は、皇帝(アレキサンドル三世)暗殺未遂者として死刑になっている。その弟という立場にあったことだけで、入学したばかりのカザン大学(タタール自治共和国の首都カザンにあり、十九世紀初めに創立)を放校処分となった。復学の願いもかなわない。彼の人生はこのように、まず前途に希望を見いだせない暗き青春期から始まったのであります。しかし彼は、放校処分に負けないで、朝から晩までむさぼるようにして集中的に本と取り組んでいったのであります。
その後、彼は革命運動に進んで逮捕される。そしてペテルブルグ(現在のレニングラード)の獄窓に一年二カ月、つながれたのであります。更に一八九七年の二月にはシベリアヘ三年間の流刑の判決が下り出発している。その流刑地で一九〇〇年の一月まで過ごしたのであります。しかしレーニンは、その流刑地で、ロシア経済の分析を進め『ロシアにおける資本主義の発達』を著した。

この大著『ロシアにおける資本主義の発達』を読んだロシアの高名な歴史家、そして社会学者でもあるコヴアレーフスキーは、レーニンの大歴史家としての才能に驚いたようであります。
やがてレーニンは自らの目的であった革命を達成したが、いまだ残る旧勢力の反撃や他国の干渉のなかで国内戦が打ち続き、最も厳しい時期を迎えていったのであります。産業は農業をはじめ、あらゆる面で壊滅状態となった。人々の間にも不安が出はじめ、未来への展望も苦しいものとなってきました。

しかし、レーニンは悠然と、声を大にして青年に呼び掛けています。
「若い青年の最も重要な課題は、学習である」と――。レーニンという人物の偉さは、実は、私はここにあったとみるのであります。つまり、革命後の最も困難な時に、彼は青年にすべてを託し、期待し、「今こそ学べ、学べ、また学べ」と叫んだのであります。

無名の民衆に包まれた生涯
ここで思えることは、これらの事実からみても、歴史的偉業は、決して平坦な道のりのうえに出来上がったものではない、ということであります。むしろ、迫害や苦難の悪気流を、半ば宿命づけられていったところに、想像を絶する歴史と、後世への奇跡ともいうべき記念塔が、振り返ってみると、立てられていることが、うかがえるのであります。

かの若き時代のニーチェは、歴史に残る記念碑的偉業を押し包みゆこうとする、こうした悪気流をこのように糾弾している。「鈍重な習慣が、卑小なものと低劣なものが世界の隅々を満たし、重苦しい地上の空気としてすべての偉大なものを取り巻いてたちこめ、偉大なものが不死に向かって行くべき道の行くてに立ちふさがって、妨害し、たぶらかし、息をつまらせ、むせかえらせる」(『ニーチェ全集』小倉志祥訳)と。

私はは、いわゆる″英雄主義″″天才主義″にくみするものでは決してありません。歴史的偉業といえども一人の手で成し遂げられるものでは絶対にない。多くの無名の民衆に支えられ包まれながら、支持されて成就するのが道理であると信じております。

歴史的偉業というものは、どんなに偉大な個人の名が冠せられていようとも、民衆という大地に、しかと根を張っているものなのであります。だからこそ民衆の犠牲のうえに君臨しゆく権力者やエリートは、野望と保身から発する、ドス黒いねたみと羨望の炎に焼かれるのであります。彼らの地位や位がどうあれ、その心根ともいうべき本質を、ゲーテは「人間もほんとうに下等になると、ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外の関心をなくしてしまう」(『ゲーテ全集』大山定一訳)境涯にまで堕落してしまっていると言っております。そこから民衆のリーダーに対して、迫害の嵐が巻き起こるのは必然の理なのであります。

「古きを温ねて新しきを知る」という諺がありますが、こうした″迫害の構図″こそ、古今を通じて変わらぬ歴史の鉄則と私はみるのであります。
これは私事にわたって誠に恐縮ですが、私も一仏法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僣越ながらこの″迫害の構図″に照らしてみれば、迫害こそむしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます。

若き学徒の諸君にあっても、長いこれからの人生の旅路にあって、大なり小なり悔しい嵐の中を突き進んでいかねばならないことがあると思いますが、きょうの私の話が、その時の一つの糧となれば、望外の喜びであります。
どうかこの数日間、楽しい創大祭を送られますようお祈り申し上げ、私のつたない話を終わらせていただきます。

(昭和56年10月31日 創価大学体育館)