池田先生に学ぶ(歴史と人物を考察ー迫害人生③
投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 3月 1日(日)13時03分21秒  
皆様、こんにちは。
昨日に続き、迫害と人生の後半を掲載します。

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先生のスピーチを学ぶ中でこれは絶対に学んで欲しいものがあります。ご存知の方も多いとはおもいますが
昭和56年の創価大学でのスピーチで、
歴史と人物を考察ー迫害と人生です。
会長辞任後の公式の場での大事なスピーチです。
全部で5回に分けて掲載します。よろしくお願い致します。

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歴史と人物を考察ー迫害と人生③
第11回創大祭記念講演 (1981.10.31)

楚の国の運命は、屈原が心配したとおり、懐王は、欺されて秦の国で死去している。その懐王の位を継いだ長子も忠義の士である屈原の心を侮辱して更に屈原を追放してしまったのであります。事ここにいたり、楚の国を去って他の国の英明な君主に仕えることを潔しとせず、屈原は楚の国の滅亡を予言しつつ川に身を投げたのであります。こうして信念に殉じた予見の±・屈原が没して五年たらずして、果たせるかな秦の国の大軍が南下し、楚の国はついに滅亡してしまったのであります。

「余が心の善しとする所 九たび死すといえども 猶未だ悔いず」――愛国の詩人・屈原は自らの詩に、こう歌っております。つまり自分が追放されたのは、自分が善しと信じたことによるのであり、その信念の生き方によって、たとえどのような迫害にあい、たとえ九たび死のうとも、悔いることは断じてないというのであります。
また中国にあって最大の歴史書といわれる『史記』の作者である司馬遷もまた、逆巻くような逆境のさなかで、ひとたび決めた志を貫き通した人であります。

漢の武帝のころ、彼は父祖伝来の、記録係と天文官を兼ねた太史令という職にあった。当時の中国は、北方の蛮族ともいえましょうか、匈奴の征伐のためにたびたび出撃していたのであります。そういう時に漢の一将軍であった 李陵りりょう という人が、勇戦むなしく孤立無援に陥ってしまった。最後には敵の軍門に降ったわけであります。きのうまでは、この勇将である李陵の戦いをさんざんほめていた宮中の居並ぶ位官達は、手の裏を返すように、今度は彼をさんざん非難していったのであります。

人の心は、移り変わりやすく、いつの時代でも恐ろしいものであります。よきときは付きながら悪しき気流が始まると非難したり、去っていくものであります。そればかりではなく卑劣きわまる反逆をなすものであります。それはそれとして、そのような激変の最中にあって、司馬遷ひとりが、わずかな軍勢を率いて匈奴の大軍を悩まし続けてきた李陵の奮戦を弁護したのであります。そこで彼、司馬遷は武帝の怒りにふれ、投獄されたうえ、その身は宮刑に処せられてしまったのであります。

宮刑というのは別名腐刑ともいわれまして、男子にとって最も屈辱的な刑罰だったのであります。司馬遷自身、友人への手紙の中で「自分は自殺すべきであったかもしれないが、志を完成させるため、屈辱をしのんで生き延びた」と書いております。その「志」こそ、父から託された『史記』の完成にあったのであります。そして残る人生のすべてを費やして、中国史上に冠たるこの大業を成し遂げるのであります。

『史記』の中には、有名な「天道是か非か」の文が記されております。正義が滅び悪がはびこる世の中で、もし「天道」なるものがあるとすれば是なのか非なのか――。これは、我が身に照らしての司馬遷の痛憤の問いかけでありました。彼はこの痛憤のなかでただむなしく悲哀に明け暮れているのではなく、それを発条として『史記』の著作に没頭していったのであります。『史記』が他の中国の史書と異なり、没落した人や悲劇の人に温かい共感を示しているのも、著者自身の過酷な体験、ツヴアイクの言葉を借りれば「奈落の底を知ったもの」だけが持つ人間洞察の深さであるように、私には思えてなりません。

「喜びは、苦悩の大木にみのる果実である」

話をインドに移させていただきます。そこでまず述べなければならない人は″インド独立の父″マハトマ・ガンジーであると思います。彼ほど迫害との戦いに終始した人は少ない、と思うからであります。ご存じのとおり、彼の一貫した思想は「抵抗するな、屈服するな」の非暴力主義として我々に知られております。彼の戦いの方途は、過酷なイギリス植民地主義の鉄鎖を打ち破るためへの、良心のすべてをかけての選択でありました。
彼の一生は、逮捕と投獄、そして断食による抵抗の一生であった。戦いを開始する際、彼が「非協力は宗教的かつ厳密な意味での道徳運動であるが、政府打倒をめざすもの」と宣言した時、既にイギリスの植民地政府の弾圧と迫害の魔手が伸びることは必然の運命でありました。それを覚悟のうえで独立闘争に乗り出したガンジーにとって、迫害こそ自らの信念を鍛えゆく格好の場であると、知っていたに違いありません。

私はガンジーの「善いことというものは、カタツムリの速度で動く」という言葉が非常に好きであります。人間の精神の力を信ずるがゆえに、彼は武力を用いて短兵急に事を解決する戦いを退け、粘り強く民衆に訴え続けていったのであります。たしかにガンジーの戦いは「カタツムリの速度」であったかもしれませんが、迂遠なようにもみえるが、物事の真実への解決の方途を、彼は知悉していたと思われるのであります。
だからこそありとあらゆる迫害に一歩も退かなかった彼は、インドの独立にも安住できなかったようであります。つまり念願かなっての、晴れの独立式典にも出席せず、彼はとどまることを知らず、ヒンズー、そしてイスラム教徒達の抗争が限りなく続きゆくカルカッタの貧民街に、その老躯を見せているのであります。つまり迫害と闘争を繰り返しながら磨き抜かれたガンジーの生命は、常に民衆の解放を求めて、休むことを知らなかったのであります。そのガンジーの存在をアインシュタインは「二十世紀の奇蹟」と称賛しておりますが、私も同感なのであります。

(続く)