池田先生に学ぶ(歴史と人物を考察ー迫害と人生②
投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 2月28日(土)19時41分38秒

第11回創大祭記念講演 (1981.10.31)

中世になると、菅原道真は、柿本人麻呂、山部赤人と並んで和歌の三神とまで呼ばれるようになりましたが、この柿本人麻呂についても、梅原猛氏は誠に独創的な新しい仮説を立てておられるのが、私には興味深く思えるのであります。

この『万葉集』を代表する歌人である人麻呂も、晩年は、現在の島根県へ流罪にあって刑死したという新説なのであります。当時は律令がやっと制定され、厳しい法治社会が実現しつつあった。そこで権力者の意のままにならぬ人間は、どしどし流罪になっていったようでありますが、かの柿本人麻呂も、島根・石見の国へ流されて一生を終えたのではないか、というのであります。
我が国最大の詩人であり、我が国第一の歌人であり、その歌いし歌は雄大にして荘重な調べを残した「ますらおぶり」の代表者である人麻呂でさえも、このように時代から突き放されていったことが、悲しくも浮き彫りにされてくるのであります。

時代は下って、明治維新の夜明けを作り上げた二人の人物、頼山陽と吉田松陰について、少々述べたいと思います。
今から百年前に、日本の最大の文豪はだれかと問われれば、当時の人々は、ほとんどが頼山陽と答えた、とも言われています。「鞭声粛々夜河をわたる……遺恨なり十年一剣を磨き……」と川中島における上杉謙信の心境を詠んだ頼山陽の詩などは特に有名でありますが、『日本外史』二十二巻は、江戸時代の後期、明治維新の革命を推進しゆく大きな力となったともいえるのであります。

この明治維新の世代にとって革命の書であった大著の原形は、頼山陽が脱藩の罰のため、二十一歳から三年の間、一室に監禁されていた時にできたものであります。源平の勃興より徳川家光あたりまでの、武将の盛衰興亡を、簡潔にして平明に、誠に名文で描いた『日本外史』は、座敷牢の幽閉生活から誕生したわけであります。自由を拘束された狭い空間で、人生を見つめる機会にあったのか、頼山陽の筆は躍ったようであります。

山陽が、晩年、喀血して死の床に臥してからも、門人を動員し、阿修羅のような勢いで著作に取り組んだことも事実であります。頼山陽のような人物にとっては、幽閉という苦難の事実も、病魔といえども、また死魔といえども、すべてを発奮の 発条ばね として、少しも障害とはならなかったようであります。

吉田松陰もまた、迫害と逆境の連続のなかにあって、常に自らの信条に生き、先覚の道を切り開いていった、頼山陽とほぼ同時期の思想家であり、革命家であります。彼の三十年に満たないその短き人生は、安政の大獄に連座殉難して惜しくも終わりましたが、その文字通り死を賭しての姿を多くの弟子門下に植え付け、その思想は確実に継承されていったのであります。

彼の少年時代より鍛え上げられた学問的風格は、やがての獄中生活、また幽閉生活で、いよいよ磨かれていったのであります。松陰自身が書いた『野山獄読書記』によると、一年二カ月の獄中での読書は六百冊ということであります。しかも、ただ通読するというのではなく、丁寧に抜き書きをし、所感も記入しての読書であります。時代の課題に、鋭く常に対決し、ついには死という松陰自身の″実物教育″によって、松陰門下は、いかに生きるべきかを深く理解していったといえるのであります。

現在でも山口県萩市内に、彼の入った野山獄という名の遺跡があります。この野山獄内でのエピソードとなりますが、ともにいた囚人十一人を自然に感化、教育し、獄中問答すなわち獄中座談会、更に獄中読書会や獄中講義を進めながら、絶望の空気からそれらの囚人達を解放させたりしています。それは松陰の人格とヒューマニストとしての人間愛からほとばしる境涯であったことが、うかがえるのであります。なお獄吏も、その子息も、ともどもに廊下で松陰の獄中講話を拝聴するようになったとまで言われております。

松陰の理不尽な刑死を知った門下生の憤恨がいかに筆舌に尽くせないものであったかは察するに余りあります。松陰門下の双璧であったその一人、高杉晋作は「実に私共も師弟の交を結び候程の事ゆえ、仇を報い候はでは安心仕らず候」と決意した。またその一人、久坂玄瑞は「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ様肝要なり」と述べている。事実、やがてこれら青年門下生は松陰の遺志を継ぎ、獅子奮迅の戦いを始めて、明治維新へと時代は大きく回転していったことは、皆さまご存じのとおりであります。

障害に鍛え信念の道歩む

ここで、国をかえて、中国におきましては、いわゆる二千数百年前の戦国時代、楚の国に屈原という詩人がおりました。この屈原という詩人は、楚の国の懐王という君主に仕えておりました。大変に有能な人で、司馬遷の著した『史記』という本の中に、かの屈原のことについて「博聞強記で、治乱の事蹟に通じ、文辞に習熟していた」(野口定男訳)と述べられております。
この時代は、今から二千数百年前の中国のことであり、当時の中国は中原鹿を争う乱世であり、いわゆる弱肉強食の社会であったわけであります。

揚子江つまり長江中流一帯を有した楚の国に対し、西北には秦という大国があった。その大国より楚の国は、いつも脅かされていたのであります。そこで屈原は、楚の国の将来の安泰のために山東方面を有していた斉国との親交を鋭く説いてきたが、その進言は、ついに容れられなかったのであります。その反対に楚の国は屈原の進言に反して秦の国に接近してしまったのであります。
そればかりか阿諛諂佞の側近の讒言にのせられてしまった懐王は、賢者である屈原を追放してしまったのであります。

しかし屈原は、君主を想い、国を想うあまり、血涙を流しながら「離騒」という圧巻の詩を書いたのであります。この離騒という意義は″憂いに 罹かか る″という意味で、自分自身の痛恨の想いで、後世に残していったものであります。すなわち、この屈原の叫びは「心を屈して 志をおさえ 追放のとがめを忍んで 恥に耐えよう 清廉潔白を守り 正義に殉ずることこそ 古の聖人の深く教えたもうところなり」とあります。