2014年11月27日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月27日(木)08時46分9秒 通報 次元は異なるが、有名な「報恩抄」の一節には、 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(御書三二九頁) ――苦難のない極楽での百年の修行の功徳は、この汚れた国土での一日の修行の功徳に及ばない――とある。 現実は、さまざまな、いやなこと、苦しいことの連続かもしれない。 しかし、それらがあるからこそ、成仏への大境涯を広々と開くことができる。 あたかも、ジェット機が高速で急上昇していくように、苦難を糧として、境涯を急速に高めていけるのである。 大聖人が仰せのように、《難即安楽》である。 また《難即解脱》であり、《難即前進》なのである。 正義を実践するゆえに、世間から迫害を受ける。それが真の宗教人である。 法難も入獄もなく、形だけの仏道修行でわが身を安楽に養っているのは、いわば宗教屋である。 広宣流布の偉業も、苦難また苦難があってこそ、完成に向かって進むのである。 さて、あるフランスの学者が、SGIの発展ぶりを見て、次のように感嘆していた。 「仏教が、これほどヨーロッパに広まるとは、まったく考えられなかった。 そして、これほどまでに、全世界に広まっていることは、驚嘆の極みである。 これは、創価学会が『新思考』をもって、(=仏教を知らない世界の人々に)仏教を宣揚してきた正しさの証明である」――と。 一流の知性の《公平な眼》は、本質を見ている。 仏教史にかつてない、「正法」の世界的興隆。 この《事実》をありのままに虚心に見つめるとき、学会の《真実》もまた、鮮やかに映じてくるにちがいない。 新しき世界が開かれ、新しき時代がつくられていくとき、それまでの古い《常識》を打ち破る《新思考》が必要とされる。 その「知恵」にこそ、生きた仏法がある。 過去にとらわれず、現在に生き、現実に生き、未来を創りゆく仏法の自在無碍の英知の躍動がある。 一切を変化また変化と見るのが、仏法の基本である。 その変化に即して、不変の知恵を発揮するのが、仏法者の使命である。 かたくななだけの《旧思考》の安易さは、それ自体、真の仏法ともっとも縁遠い姿なのである。 【第四十四回本部幹部会 平成三年七月五日(全集七十七巻)】 Tweet