投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月27日(木)08時47分16秒    通報
「真心」が「真心」として最大に報われる世界――これが、大聖人の仏法の世界であり、私どもの世界でなければならない。
そうであってこそ、私どもは心から「安心」できる。

かりに、苦労知らずで庶民の真心がわからず、仏子の真心を踏みにじったり、
それで私腹を肥やすような人間が門下の中にいたならば、大聖人のお心に反逆する者と、私どもは断ずる。
ともあれ学会は、永遠に、庶民の心で、庶民とともに、庶民のために進んでいく。

大聖人はこの御文の前に、盂蘭盆の由来が、餓鬼道の苦しみから親を救うところにあることを示されている。
そして現実に渦巻く、あさましき餓鬼道の姿を、鋭く喝破しておられる。

たとえば、「食法餓鬼」。
法をむさぼり食う、出家の姿をした餓鬼である。
仏法を、自分の名聞名利のために利用し、人々を助けようという心もない――。

また、人に隠れて、自分一人だけ供養を受けたり(狗犬の僧)、
供養を受けたことを人に隠さなくても、欲の心に凝りかたまり、人にはまったく施さない姿――。

そうした不知恩、エゴむきだしの貪欲な僧の姿を、
大聖人は「形は人にして畜生のごとし」(御書一一一二頁)と、厳しく戒めておられる。

大聖人は正反対であられた。
大難の連続のなか、どこまでも「人間のため」「民衆のため」に、大法弘通に進まれた。
民衆利用の既成宗教界とは、まったく異なる崇高なお振る舞いであられた。
その大聖人の御遺命のままに、大聖人の教えられたとおりの「広宣流布」の道を行く学会である。

牧口先生が獄中に殉じられたのは、なにゆえか。
戸田先生が入獄されたのは、そして私があらゆる難を一身に受けてきたのは、なにゆえか。
一切は、法のためである。人々の幸福のためである。

ただ「広宣流布」のため、それ以外に何もない――それが学会である。
その真実の軌跡を、大聖人が御照覧にならないはずがない。
心して、何ものにもだまされてはならない。
正しき「信心の心」を、断じて破られてはならない。

大聖人は、このお手紙で、御自身につらなる檀那が、卑しい餓鬼道の世界を悠々と見おろしながら、
三世十方の諸仏とともに自在に遊戯しゆく大境涯を開いていけることを、お示しくださっている。
まことにありがたきお言葉と拝する。

「日蓮が檀那」と述べられているように、私どもは「大聖人の檀那」である。
ゆえに、どこまでも「御本尊根本」、どこまでも「御書根本」である。
御書に照らしてどうか。一切の基準は、そこにある。

戸田先生はよく弘法の大変さなどについて、「文句があったら大聖人に言ってくれ」と言われた。
冗談めかした言い方に聞えるかもしれないが、御本仏の仰せのままに進む学会の誇りと確信がこめられている。

今もまた同じである。何があろうと、私どもはただ大聖人の教えどおりに進んでいるだけである。
ともあれ、御書の御指南のままに戦う人、その人こそが、三世にわたる「幸福」と「使命」の王者であり、女王である。
汲めども尽きぬ「歓喜」と「福徳」と「誉れ」の境涯を満喫していける人である。
――その《永遠の勝利者》の世界が、まさに、わが創価学会であることを、断言しておきたい。

【第四十四回本部幹部会 平成三年七月五日(全集七十七巻)】