投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月23日(日)09時51分26秒    通報
罪の報いとしての地獄。罪を浄める修行の浄罪界。浄められた生命らの天堂界。
これらは仏法的には、奪っていえば六道(六界)、与えていえば九界といえよう。
ともあれ、その描写は、どこまでも、ダンテの体験、実感が基本にある。
ダンテの境涯の表現である。

大聖人は、八万法蔵も「我身一人の日記文書なり」(御書五六三頁)と仰せである。
もとより次元は異なるが、『神曲』はダンテの生命の「日記文書」であった。
それが同時に「人類の劇」となったところに偉大さがある。
小さな「個人の悲劇」を、壮大な「人類の喜劇」に変えた。

ダンテは迫害の風をも、生命の高みに舞い昇るために使った。
祖国を追放された代わりに、「世界」と「永遠」を祖国とする者になった。

青年もまた、一人のダンテにならねばならない。
全生命、全能力をふりしぼって、「正義」を高らかにうたい、叫び、歴史に刻みゆく、一人のダンテにならねばならない。
ペンで、口で、また行動によって、燦然たる「勝利の劇」を人生につづっていただきたい。

そのためには、恐れることなく、ためらうことなく、現実の中へ!、
人間郡の中へ!、時代の最前線へ!と走りゆかねばならない。

現実の中へ!――。
これこそが、ダンテの一貫した精神であった。
彼を空想家とするのは、よほど彼を知らぬ者である。

その現実の中から、生命の「地獄」も「浄罪界」も「天堂」も、ダンテの目に見えてきたのである。
「地獄」とは、じつは、今世の姿でもあった。今世の《生命の現実》であった。
生死不二、因果倶時であるゆえに、この世には十界の絵模様の当体がある。

ともあれ、「正義の法」を胸に刻みて、人類の中へ、人間の中へ――『神曲』には、いわば布教精神にも通じる厳愛の魂が脈打っている。

『神曲』はまた、師のヴェルギリウス(ローマの大詩人)とともに進んだ「師弟の旅」の物語でもある。
(地獄と浄罪界は師がダンテを導いていく)

師なき「生命の旅」は停滞か、奈落に落ちるしかない。
師はつねに「恐れるな」と繰り返す。

浄罪界で、人々が自分を見て不審がるのを耳にして歩みの遅くなるダンテに、師は言う。
「(=うわさなどに)何ゆえに心ひかれるや」「汝は汝の道を征け!世人をして語るにまかせよ」

この言葉は、マルクスが『資本論』を世に問うときに、モットーとしたので有名である。
ダンテは地上の最高の権威である法王すら恐れなかった。
「聖職者の傲慢」を、「人間の正義」の高みから見おろしていた。

【イギリス青年部総会 平成三年六月二十九日(全集七十七巻)】