投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月 3日(月)09時26分38秒

 
これも中国の話である。
後魏(四―六世紀)の太武帝が、狩りをして遊んだときのこと。
ある臣下に、「もっと良い馬をそろえよ」と命じた。

「良い馬」とは、今でいえば《高級車》等にあたろう。
だが、その臣下は、わざと弱い馬しか出さなかった。
帝は怒った。
「斬る」と恫喝した。

しかし臣下は少しも動じない。
それどころか、心配する自分の部下に淡々と語った。
「主君の遊びのために十分尽くさなかった罪は小さい。だが、国家の不慮(危険)に備えない罪は大きい。
今、わが国は、北から南からも狙われている。私は、これを心配し、そのために良い馬を養っているのだ。
その馬を、遊びには使えない。
明主に対しては、筋をとおせば、命令を聞かなくてもよいと、古来から言われている。
責任は私にある。お前たちは、心配しないでよい」と。

この言葉を伝え聞いた太武帝は、「ああ、このような臣下こそ、国の宝だ」と感嘆したという。

《国のための馬だ。主君の命令であろうと、遊びのためには出せない》
――主君を怒らせても、あえて言うことを聞かなかった臣下は、真の忠義の人であった。
そして、太武帝もまた、いったんは怒ったが、臣下の国を思う心を知り、このときは、自分の非を認めたのであった。
(増井経夫『「知嚢」中国人の知恵』朝日新聞社)。

《筋のとおった》主張を、率直に認められるかどうか。
指導者としての賢愚がためされるのは、そこである。
(だが、臣下を恫喝する帝の性癖は改まらず、後年には多くの反対を押し切って仏教を弾圧、やがて側近に殺される末路を招いた)。

「道理」が「道理」として通じない世界は不幸である。永続するはずもない。
やがて人々に見捨てられ、滅びていく。
それは多くの歴史が証明している。

御書に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書一一六九頁)
――仏法というのは道理である。道理というのは、主君(権力)にも勝つものである――と仰せである。

「道理」「筋のとおった話」は、主君、権力者にも抑えきれるものではない。
国を思い、未来を思うならば、主君は道理に耳をかたむけるべきであり、臣下は、主君に非があれば、道理にしたがって諌めるべきである。

これは、大聖人が御書で繰り返し教えられたところである。
大聖人御自身、《権威・権力で道理を曲げる》当時の権力者や悪僧と、一生涯、徹底的に戦われた。
私ども門下も、その精神は不変でなければならない。

【第四回全国男子部幹部会 平成三年二月十七日(全集七十六巻)】