投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月 3日(月)09時27分24秒
《太武帝の馬》と同様の話は多い。
後唐(十世紀)の荘宗という皇帝が、あるとき、遊興のために金を必要とした。
しかし、金蔵は張承業という老いた臣下が握っている。
皇帝は、あの手この手で、金を引き出そうとした。
しかし、老臣は頑固だった。

「国家の銭は、私の勝手にはできません。だれにもできません」と。

それでも主君がしつこく頼むので、老臣は言った。
「私は(あなたの父である)先帝の遺言によって(天下を取るという)後事を託されているのです。
金を惜しむのではありません。あなたを助けて、天下に望みを成就しようというだけです。
どうしても、この金が欲しいといわれるなら、何も私に遠慮される必要はありません。
(私を殺すなり)帝の権力を使えばよいでしょう。
しかし、財が尽き、民も兵士も離れていって、それでは国はどうなるのですか。
私一人の災難ではすみませんよ」

老臣はこう言って、荘宗の着物をつかんで男泣きした。
皇帝も、さすがに何も言えなくなった。
こういう老臣のような人物こそ、人間として真に偉い人である、と私は思う。

荘宗が、もしもこのとき、老臣を退け、金を自分の好きなように使い始めていたら、国は滅び、みずからも千載に悪名を残したであろう。

《皇帝のわがままに、そのまま従っていたら、先帝の遺命は実現できない。
自分の生命をかけてでも、「天下を取る」という誓いは守らねばならない》――この老臣の心境が、深く胸に迫ってくる。

次元は異なるが、私どもも日蓮大聖人の御遺命たる「広宣流布」のためには、いかなる時代になろうとも、信念を曲げるわけにはいかない。

いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、守るべきは守る以外にない。
ともあれ、金銭は、賢明な人の心をもむしばみ、狂わせる魔性をもっている。
留意すべき根本的な大事ともいえる。

私どもは、御本仏の仰せのとおりに進む。
御本仏の大慈大悲につつまれた私どもの栄誉と福徳は、三世永遠である。
仏法はどこまでいっても、その真髄は「慈悲」である。
それがまた道理である。

ゆえに感情で、その仏法の真髄をはき違えて、
「信者のくせに」「信徒のくせに」という傲慢な心をもったり、
怒鳴ったりする人が、もしいたとしたら、その人は、真の仏法を会得した人ではない。

いわんや聖職者は、あたたかい慈悲で、人を救う立場である。
救うべき信者を無慈悲にいじめるような人は、あれほどまでに在家の門下を大切になされた日蓮大聖人の清流を受け継ぐ人のなかにはいないにちがいない、他の宗派の人ならともかく、と私たちは思う。

【第四回全国男子部幹部会 平成三年二月十七日(全集七十六巻)】