2014年11月1日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月 1日(土)10時23分8秒 徳川幕府の八代将軍・吉宗(一六八四年―一七五一年)は、 歴代将軍のなかでも有名である(江戸三大改革の一つ「享保の改革」でも知られる)。 彼が、あるとき、大岡越前守(町奉行として活躍し《大岡裁き》として有名)と話をしていた。 吉宗が、越前守に、聞いた。 「善悪とは、どんなものか?」、 すると越前守は、「おきあがりこぼし」の人形を取り出し、転がしてみせながら言った。 「このように、いくら転がしても、すぐにまた起き上がります。 これが善です。倒そうとしても、決して倒せるものではありません」善は絶対に負けない――と。 吉宗は、うなずいて、 「よくわかった。それでは悪とは?」、 越前守は、今度は一枚の小判を取り出し、「おきあがりこぼし」の背中に結びつけた。 「よく、ごらんください。これも、黄金を背負って、欲に迷いますと、悪に変わります。 すると、このとおり、ふたたび起き上がることができなくなるのです」と。 倒そうと思っても倒れない「おきあがりこぼし」も、小判を背負うと、もう起き上がれない ――つまり、《善人》も金によって、《悪人》に変わるというたとえである。 この逸話はできすぎた話で、史実ではないと思うが、語られている真理は真理である。 金によって道を迷う――それが、つねに変わらぬ人間の弱さ、醜さである。 人間の世界である以上、信心の世界も例外ではない。 お金がないときは、祈りにも力が入る。 仏道修行も真剣である。 ところが、福運を積み、経済力ができると、何となく力が抜け、惰性になっていく場合がある。 ここにも、うなずいている方がおられる。 金銭感覚もだらしなくなり、生活も乱れて、結局、信心から遠ざかる人もいる。 「私は、お金がなくて本当によかった」と、安心した方もおられるかもしれない。 ともあれ、お金は《使う》ものであって、《使われる》ようになってはおしまいである。 しっかりした目的観をもっているかどうかで、善にも悪にもなる。 【第一回沖縄県総会・第六回壮年部幹部会 平成三年二月五日(全集七十六巻)】 Tweet