投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月 1日(土)10時23分54秒

 
イギリスの思想家ベーコン(一五六一年―一六二六年)は語る。
「金は、よい召し使いだ。しかし場合によっては、悪い主人になる」(随筆集)と。
金に支配され、金に使われ、金を基準に判断する。
それは、もはや金の奴隷である。悪である。

そして、《金の奴隷》になった人を見ぬけず、その人の言うとおり動く人――そうした愚かな人は、《金の奴隷》の、そのまた奴隷である。

だました人間が、悪道にいくのは当然だが、だまされた人間も、道を踏みはずしたという点では、結局、同じとなり、同様に悪道にいくことになってしまう。

これ以上、みじめな人生があるだろうか――。
むしろ、《金の奴隷》となった人間の悪と策謀を鋭く見ぬき、戦わねばならない。
その「英知」と「勇気」の源泉が信仰なのである。
悪にだまされ、悪の犠牲になったのでは、何のための信仰か。何のための人生か。
だれよりも幸福になるために信心したのである。
せっかく歩んでいる幸福への軌道を、みずから狂わせてはならない。
また、だれ人にも狂わされてはならない。

金の魔力は、人間と人間の絆をも断ち切ってしまう。
数十年前のこと、ある地方の町に、長年、連れ添った夫婦がいた。
妻は働き者だったが、夫は怠け者で、妻のかせいだ金で遊んでばかりいた。
それでも妻は、「女は男に仕えるもの」と、長い間、教えこまれてきたので、我慢して尽くしてきた。

――今しているのは決して壮年部の話ではない。本当にひどい夫もいたものである。
夫婦は貧しかった時代は、それでもまだよかった。
若く、希望があるし、それなりの心の通い合いもあった。

やがて妻の懸命の努力で、店が軌道に乗り、生活も安定した。
食べるだけなら何とか、利息を中心にしてでも生活できるほどの貯金までできた。
妻は、やれやれホッとしたと喜んだ。やっと、これから楽になる――。

ところが、彼女は夫に金を与えすぎた。
全部、彼女の名義にしておけばよかったのかもしれないが、あまりにも善人で、一生懸命の彼女は、そうしなかった。
夫は、彼女が思っている以上に悪い人間だった。
金ができると、《これでもう別れても大丈夫だ。あいつ(妻)を捨てよう》と考えた。
じつは、こっそり若い愛人もつくっていた。

金を手にした以上、妻はもう《ご用ずみ》にすぎなかった。
しかし、切り出す正当な理由がない。
そこで彼女の《黒いうわさ》を徹底してでっち上げた。
裏で自分が作り話を流し、何人もの自称《証人》までこしらえた。

自分が裏切っておきながら、反対に、彼女が陰で不貞を働いているというのである。
根も葉もない、ばかばかしい話だった。冷静に見れば、陰謀であることは明らかである。
しかし、世間は悪いうわさには耳を貸しやすい。パッと飛びつく。

このときも、三流週刊誌のような心の人々が、いっぱいいた。
昔のことでもあり、町中でうわさになると、だんだん彼女に不利になっていった。
男性に甘く、女性に厳しい、古い体質の町であった。
とうとう、この悪い夫は、長年、身を粉にして尽くしぬいた妻を切り捨てることに成功した。
そして、彼女のかせいだ金で、安楽に遊び暮らした――。

まさかと思うような話であるが、事実である。
他の世界においても、同様の無慚(恥知らず)な話は、たくさんある。
封建時代には、もっと多かったであろう。
民主主義も知らず、対話の精神もない、権威的で、一方的なわがままがとおった時代である。
こうした古い、非人間的な考え方の犠牲になった人は数限りなくいる。

【第一回沖縄県総会・第六回壮年部幹部会 平成三年二月五日(全集七十六巻)】