投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月30日(木)09時51分58秒
さてチャップリンは、日本文化を深く愛していた。
《カブキ(歌舞伎)》のしぐさを研究したりもした。

日本人の一種の《完璧主義》――こまかい所まできちっとする点も、波長が合っていたようである。

彼の使用人頭も、運転手とコックも、皆、日系人であったという。
このように、日本びいきの彼が来日した時(一九三二年、昭和七年)、民衆は大歓迎したが、一方で、彼を暗殺しようとねらった一派もあった。

理由がすごい。
それは、日本でもチャップリンの人気がありすぎるため、「国民を西欧崇拝に導いてしまう」ということであった。
こうした独善的な人間が、チャップリンを殺そうと謀るが、計画は失敗。世界の「民衆の宝」を傷つけ、日本が世界に恥をさらさずにすんだわけである。

初期の代表作『犬の生活』のなかで、チャップリンは叫ぶ。
「われわれは犬ではないぞ! 人間だ!」この叫びは、貧しい労働者から拍手で迎えられたが、資本家からは強く憎まれた。

また、作品のなかで、彼はいつも当時の権威的な警官をからかっている。
無力な庶民の正直な心情をこめたものなのだが、警察からは「一度、お前をぶちこんでやろうか!」と脅迫されたこともあるらしい。

さらに、『偽牧師』では、聖職者を風刺したとして危うく逮捕されるところだった。
アメリカのある州では「神聖な牧師たちを愚弄した」と、映画は上映禁止にされた。
素直に見れば、決してそうではないことがわかるはずなのだが――。

伝記作家のジョルジュ・サドゥールは書いている。
「偽善者たちは諷刺に敏感である」(前掲) それは、何かしら思い当たることがあるからだ、というのである。

ここでの偽善者とは言うまでもなく、キリスト教の牧師のことである。
彼らが「これは俺たちへの風刺にちがいない!」と怒るのは、それが鋭く《実態を突いている》ことを、自分で認めたようなものだというのである。

それに似たことは、皆さま方の家庭でもあるにちがいない。
ご主人方が心に《やましい》何かをもっているとき、奥さま方の、何げない話題にもドキッと敏感に反応する。
それが《真理を突いている》からであろう、何とか《反撃》しなくては、と勝手にあせる。
心に受けた《大打撃》を隠しきれずに、「お前、それは俺に対するあてつけだろう」と怒りだす。
そこで、はからずも「何か、隠してることがあるのね!」と、さとられてしまうわけである。

【第十五回全国婦人部幹部会 平成三年一月二十三日(全集七十六巻)】