投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月24日(金)20時09分44秒
ここに、聖書の解釈を曲げてまで、教会が魔女狩りを推進しなければならない根本的な理由があった。
正義の人々を追放しただけではない。自分たちの悪をも、その人々のせいにできる。
民衆の疑問も封殺できるからである。

そのうえ、金は無限に入ってくる。
魔女狩りで《名を上げ》れば、聖職者としての地位も上がる。
まさに悪魔的な知恵であった。

魔女狩りの具体的方法や拷問については、語るにしのびない。
あまりにも残酷である。

裁判ひとつとっても、もちろん完全に一方的なもので《被告》への質問も答えようのないものばかりであった。
「お前は魔法使いになって何年になるか」
「その動機は」「あがめている悪魔の名前」
「どうして魔法によって教会と世間に害を与えたのか」
「共犯者はだれか」。

当然、だれも身に覚えのないことばかりである。
しかも、こうした答えられるはずのない空想上の質問をこしらえ、それに答えないと、「答えないのは魔女の証拠だ」と決めつけ、「裁判官を愚弄するのか」と怒って、《自白》するまで拷問するのである。

皆、早く死んだほうがずっと楽だと思って、でたらめを《自白》し、「自白したのだから証拠は十分」ということで火あぶりになった。
うなずいただけで、もう「証拠は十分」なのである。

――悲しいことである。恐ろしいことである。
ゆえに、すべてを見破る英知が必要になる。

魔女・悪魔狩りをする人間が、いわば、いちばん悪魔に似ていた。
当時の裁判記録には、そうした事情が克明に記されている。

パスカルは言っている。
「人間は、天使でも、けだものでもない。不幸なことは、天使を気取ろうとする者が、けだものになり下がってしまうことだ」(『パンセ』田辺保訳 角川文庫)

みな、同じ「人間」である。尊厳なる「人間」である。
それ以上でも、以下でもない。

しかし宗教上の独善的なエリート意識は、この当たり前の道理をも見えなくしてしまう。
キリスト教の聖職者は、自分たちを「神」と「民衆」との中間に立つ者として、民衆、平凡な人間より上位にあると錯覚してしまった。

これは、ある意味で、一神教の教義そのものが持つ危険性に由来すると、よく言われる。

これに対し、仏法は一切衆生に仏性、仏界を認める。
悪とは断固、戦うことは当然として、不軽菩薩のごとく、人々の仏性を礼拝しゆくのが、仏教の根本精神である。

ゆえに、仏教史上、こうした魔女狩り、異端狩りのような歴史はなかった。
かえって、法華経をはじめとする大乗仏教も、はじめ異端視されたが、釈尊本来の精神を豊かに再生させ、仏教を活性化したものとして、その後の主流になっていった。

この点を重視して「仏教の歴史は異端の歴史である」とまで主張する仏教学者もおられる。(『増谷文雄著作集』角川書店)

【海外・国際部代表研修 平成三年一月十八日(全集七十六巻)】