投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月24日(金)20時08分56秒
民衆のなかにも「ありがたい司祭さまのいわれることに間違いはないよ。さからうなんて罰当たりな!」と、
かえって「作られた異端」に一緒になって石を投げる者が多かった。

自分たちを助けるために戦っている人々に対して――。
その報いは、あまりにも残虐な結果(魔女狩り)となって、民衆自身に返ってきた。
いったん、魔女狩りの体制が認められ、軌道に乗ってからでは手遅れだったのである。
あとは、ひたすらエスカレートしていった。

「魔女」――もちろん想像上の産物である。
当初(一〇〇〇年ごろ)、教会は「魔女などという幻想を信じるのは異端である」と主張していた。
公式の「教会典範」にも明記されていた。

ところが五百年の後、今度は反対に「魔女を否定する者は悪魔の手先である」と言いだした。
その時々の自分たちの都合で、聖書の解釈は正反対になった。
彼らは当時、魔女を《必要》としていた。

どんなこじつけであっても、人々を魔女や異端に仕立て上げなければ、自分たちの権威と生活基盤が崩れていく、そんな恐怖感を持っていた。

なぜか。
魔女狩りの時期は、ちょうど宗教改革の潮流と重なる。
そうした「キリストの原点に返れ」という運動は、なんとしても押しつぶす以外になかったのである。
(後に新教の側にも、この魔女狩りが伝染する悲惨を招いた)

たとえば、「聖職者たちは、キリストの使徒と同じ清貧の生活をせよ」と主張した人々(十五世紀、ボヘミアのフス派)に対し、法王側は、報復として組織的な弾圧と殺戮を行った(フス戦争)。

魔女狩りも、こうした改革の波を抑圧するために、教会が生みだし、それに社会の支配階級が結託して完成した《人間狩り》システムであった。
「財産目当て」も、もちろん重要な目的であった。
魔女とされた人々の財産は、すべて没収された。
火あぶりの経費から、火あぶり後の裁判官たちの宴会費まで、犠牲者の家族に負担させた。

とともに、見のがしてならないことが、もう一つある。
それは、この殺人システムが、教会など支配階級内部の勢力争いや矛盾から、人々の目をそらす働きをしたということである。
何か不都合があると、何でも「魔女や悪魔のしわざ」にされた。

――税金が高いって! それは魔女のせいですよ。仕事をなくした! それは悪魔の力ですよ。司祭たちの堕落の現場を見た! それは魔女たちが、あなたに幻想を見せたのですよ。

今度の司祭はどうして前任の司祭と言うことが違うのかって! そんなことを考えるなんて、悪魔があなたの耳にささやいたのですよ…。

当時の素朴な民衆は、これらの詭弁を信じこまされた。
そして教会など支配階級に向けられるべき抗議のエネルギーは、あろうことか、民衆同士のなかで消費されてしまった。
たがいがたがいの隣人を疑い、憎み合い、密告しあうようにし向けられたのである
(密告者には報償金が出たし、個人的に気に入らない人がいれば、密告しただけで、その人を抹殺できるわけである)

【海外・国際部代表研修 平成三年一月十八日(全集七十六巻)】