投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月24日(金)20時08分12秒
そうした教会の堕落ぶりに、批判と改革の動きが起きたのも当然であろう。
たとえば十二世紀初め、当時、文化がもっとも進んだ地域の一つであった南フランスから、教会への批判と、信仰のあるべき姿を求める声があがる。

真のキリスト教は「教会」にはなく、信徒の心のなか、交わりのなかにある、と。
この叫びは、現在、十六世紀の「宗教改革」に先駆けた民衆運動とも評価されている。

しかし、当時の教会は「異端」と決めつけた。
自分たちの特権と安楽を揺るがすからである。教会はつねづね言っていた。
民衆が《聖なる》教会や聖職者を批判することは許されない、と。

「王侯の権力は教会に由来する。ゆえに、王侯は聖職者の下僕である」
「最下位の聖職者といえども王にまさる。諸侯とその人民は、聖職者の臣下である」、堕落を指摘されても、「それがどうしたというのだ。堕落しても聖職者は聖職者だ」と開きなおった。(森島恒雄『魔女狩り』岩波新書)

やがて教会は、世俗の権力を動かし、この十二世紀の《異端》を弾圧する「十字軍」を派遣。
二十年にわたって殺戮をほしいままにする。
「異端者」は全滅した。同時に、南フランスに栄えた文化もまた滅びた。

このときの民衆の大抗議運動は、教会に大きな衝撃を与えた。
これを放置していたら、われらの地位と生活はどうなるのか――。

それ以前にも、《聖書に矛盾する教会の教義・指導》を批判する者を「異端」として取り締まってはいた。
ただ、それらは比較的ゆるやかなものであった。

しかし、この事件をきっかけに、教会の「異端」に対する姿勢は一変し、徹底的な撲滅をめざしはじめた。
こうして「宗教裁判」が生まれたのである。

やがて十四世紀に入り、「魔女狩り」と結びつくことによって、「宗教裁判」はその最盛期を迎える。
数十万とも、数百万ともいわれる犠牲者を生んだ「魔女狩り」。

かつてない狂気の嵐が吹き荒れた。
――教会権力による弾圧は、どんどん増幅され、エスカレートしていった。
《芽》は未然につみ取っておくべきであった。
早いうちにその横暴を糾し、軌道を修正しておくべきであった。
しかし、ブレーキをかける者はいなかった。いたとしても皆、追放された。

【海外・国際部代表研修 平成三年一月十八日(全集七十六巻)】