2014年10月24日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月24日(金)20時07分23秒 「知は力」である。ゆえにきょうも少々、語っておきたい。 仏のことを「覚者」という。「目覚めたる人」という意味である。 ここに象徴されるように、仏教は人間を賢明にし、知恵者とすることをめざしている。 世界には、人間を盲目にし、無知にとどめ、権威の奴隷にしようとする宗教もある。 しかし、仏教は根本的に異なっている。 なかでも日蓮大聖人の仏法は、一切の民衆に成仏、すなわち「目覚めたる人」となる方途を教えられた大法である。 私どもは、こうした仏教本来の精神を実践し、世界に示していかねばならない。 大聖人の仏法を根本に、歴史をはじめ、さまざまなことを学びつつ、「世界広宣流布」への間違いない軌道をたしかにつくっていく必要がある。 私が今、渾身のスピーチを続けている重要な理由もそこにある。 さて先日、「魔女狩り」について、お話しした(一月十六日、海外派遣メンバー研修会)。 その内容を聞かれたアメリカのある新聞記者から、リポートが寄せられた。 また、多くの方からも、もっと話を聞きたいという要望があった。 そこでそのリポートもまじえつつ、「魔女狩り」の歴史的背景などについて、重ねて語っておきたい。 「魔女狩り」は、いわゆる「異端裁判」が発展し、庶民の上にまで拡大されたものである。 カトリック教会の権力が繁栄の頂点を迎えた中世末期。 それは、聖職者たちが堕落のどん底に落ちた時代でもあった。 免罪符(これを得れば《罪》は許されると説いた)を買うよう宣伝しては、儲けた。 つまり、救済も、金銭で取引されるようになった。 また聖職者の地位も売買された。経済力が教会内の高位を約束した。 ますます金が必要になってきた。悪循環である。 聖職者たちの生活も乱脈を極めた。 結婚が許されていないのは表向きのことで、子どもがいたり、愛人を何人も持っていたり、買春的行為も常識になっていた。 【海外・国際部代表研修 平成三年一月十八日(全集七十六巻)】 Tweet