2014年10月24日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月24日(金)09時22分49秒 ヨーロッパでも、強大な「教会の権威」に抵抗した宗教改革の先駆者たちは、熾烈な戦いを強いられた。 たとえばチェコスロバキアのフス(一三七〇年ごろ~一四一五年)。 彼は教会の堕落を厳しく非難した。 免罪符を攻撃したことで破門されたが、投獄されても自説を曲げなかったため、火あぶりの刑にされた。 フス派の人々は、この極刑に激怒した。 そして反乱闘争を起こし、皇帝や教会の勢力の悪を弾劾している。 またカリレオ・ガリレイ(一五六四年~一六四二年)はイタリアの自然学者、天文学者で、「近代科学の父」と称される。 しかし、その晩年は、教会による迫害の連続であった。 地動説を主張したため、異端審問を受け、地動説を否定することを誓わせられた。 このように、真の改革は、迫害を避けることはできない。 私どもの宗教改革は、大聖人の仏法による、根本的な改革である。 大聖人御自身がお示しのごとく、悪人の妨げがあるがゆえに、「正しい」といえるのである。 そもそも日蓮大聖人御自身が、もっとも激烈な「宗教改革」「宗教革命」の御生涯であられた。 私どもは、その大聖人の真の門下であるゆえに、「宗教改革」に生きる。 停滞や形式主義の「保守」は、大聖人の仏法とは正反対の生き方である。 これからも変化の波があろうが、いろいろな事があってよいのである。 そうであってこそ、皆、信心の鍛えもあり、人間としての成長もある。団結も深まる。 何もなければ、皆、ぼーっとなって、成仏のための、せっかくの《修行の場》を逸してしまう。 戦いなくして幸福はない。 信心指導も、すべて自分のためである。 たとえば《退転させまい》、この強い一念の祈りと激励は、じつは自身の生命に《自分は、永遠に退転しない》という楔を打ち込んでいるのである。 また、信心は「一生」である。 そして「三世」である。 目先のことにふり回されるのは、真の信仰者ではない。 最後には、すべてよくなるに決まっているのだから、つねに前へ前へ、一切をよい方向へ、よい方向へととらえ、進んでいく。 この、妙法を根本とした、強き「楽観主義」の人には、永遠に行きづまりがない。 第一、自分が楽しい。この喜びと確信の「一念」に、尽きることなき功徳と福運が、いよいよ備わってくる。 【沼津文化会館を初訪問 平成三年十二月二十六日(全集七十九巻)】 Tweet