投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月25日(土)09時05分2秒
北欧スウェーデンには、「聖書は教会よりも古い」ということわざがある。
マルチン・ルターらに始まる「宗教改革」を、仮に「キリスト教のルネサンス」とすると、
ある意味で、これも聖書とキリストの《原点》に返ろうという運動であった。

ヨーロッパの北方では宗教改革、南方ではルネサンス。
時期を重ね合って進行した、二つの事件の関係は微妙であり、さまざまな見方がある。
ただ、彼らなりに「もう一度、血のかよった《春》を再生したい」との願いに共通点があったといえよう。
それが成功したかどうかは別にして――。

冬――それは抑圧であり、しかめっ面である。
春――それは躍動であり、笑顔である。

有名なイソップ。彼はギリシャの奴隷であった。
当時の奴隷は数も多く、社会の実質的労働を支えていた。
今でいえば庶民である。

民衆の抵抗の精神を高めた彼の声望が高まりすぎて、古い権威にしがみつく勢力(デルフォイの神殿の関係者)から暗殺されたという。(塚崎幹夫氏の説による)

イソップの寓話に「冬と春」がある。あるとき、冬が春をバカにし、非難した。
――お前(春)が姿を現すと、皆じっとしていないと。

「ある者は野原か森へ行き、ユリやバラの花を摘んだり、それを目の前でくるくるとまわしてながめたり、髪にさしたりして楽しむ」(『新訳イソップ寓話集』塚原幹夫訳、中央文庫、以下同じ)――花とは、広げて言えば「文化」ともいえよう。

また「別の者は船に乗り、ときには海を渡って他の国の人たちに会いに行く」――国際交流である。
こんなふうに皆、はつらつと動き、自由に活動する。歌も歌う。
閉じこもっていたり、従順でいたりしない。

冬には、それが気にいらない。
「それに比べると、私は族長や絶対君主のようなものだ。
私は人が目を空の方にではなく、下に地面の方に向けることを望む。
私は人々を恐れさせ、震えさせ、ときどきはあきらめて一日中家にとどまっていなければならないようにしてやるのだ」と。

人々をうつむかせ、ひれ伏させて、自分(冬)の威信を思いしらせてやるというのである。
要するに、「冬」は「春」に《お前は人間どもを自由にさせすぎる。あいつらには、俺たち(自然)の力と権威を見せつけてやるべきなのだ。そうしないと、人間どもはつけあがって、俺たちをバカにし始めるぞ》と非難したのである。

これに対して「春」は答えた。
「なるほど、それだから人間たちはあなたがいることから解放されるのをあんなに喜ぶのですね。
私の場合は、反対に、春という名前さえも彼らには美しい。(中略)だから、私が姿を消したときには、彼らはなつかしんで私の思い出を持ち続けるし、私が現れると、たちまち歓喜で満たされるのです」

つまり、「春」は《抑えようとするから、嫌われるのよ! あたたかく包んであげたら、皆、私たち(自然)の力を尊敬し、離れようとしないのに!》と冬に逆襲したのである。

同じイソップの「北風と太陽」を思い出させる話である。
(旅人のマントをぬがせる競争で、力まかせの北風が負け、陽光であたためた太陽が勝つという寓話)

「権威」や「権力」を高めれば、人がついてくると思うのは、あまりにも人間を知らない《冬の論理》である。

【海外派遣メンバー研修会 平成三年一月十六日 (全集七十六巻)】