2014年10月22日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月22日(水)10時08分8秒 日興上人の御遺誡には次のようにある。 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書一六一八頁) ――その時の貫首(法主)であるといっても、仏法に相違して、自分勝手な教義を唱えれば、これを用いてはならないこと――と。 私どもは、日興上人の厳誡のままに毅然と行動していきたい。 大聖人はまた、次のように仰せである。 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書一二四四頁) ――この御本尊もただ「信心」の二字におさまっている――と。 信心がなければ、御本尊の体はあられるけれども力用は現れない。 こちらの強い信力・行力が、御本尊の仏力・法力と相まって、功徳が厳然と現れるのである。 「信心」と「実践」のないところに、もはや仏法の生命はない。 また、このようにも御教示されている。 「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(同頁) ――南無妙法蓮華経とだけ唱えて、仏になることが最も大切である。ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は信を源とするのである――と。 成仏は、信心の厚薄によるのであり、あくまでも強き信が根本である。 他の特別な権威等によるのではない。 また「切る」「切る」といっても「心」は切れない。 私どもの大聖人との「信心の血脈」は、だれ人も切ることなどできない。 切る資格や力のある者など、絶対に存在しない。 戸田先生は御本尊のない、《地獄》のごとき牢獄で二年間を過ごされた。 そして、あの偉大なる境涯を開かれた。そのころ、本山はどうであったか。 いちばん大御本尊のそばにいながら、大謗法によって厳しい罰を受けたのである。 一切は、信心の厚薄による。信心のある人が必ず勝つのである。 どうか、皆さまは、「世界一の朗らかさ」と「世界一の勇気」をもって、「世界一の創価学会」の建設へ進んでいただきたい。 そして、大勝利の七十周年をともどもに迎えたい。 最も大功徳を受けられる、今この時に、悪縁に粉動されて、悔いを三世に残してはならない。 学会によって知った、この幸福の人生の軌道を踏みはずしてはならない。 どこまでも学会とともに、だれよりも幸福な、だれよりも楽しき人生を切り開いていっていただきたい。 【創価ルネサンス大勝利記念幹部会 平成三年十一月三十日(全集七十九巻)】 Tweet