2014年10月19日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月19日(日)08時56分13秒 かつて戸田先生は言われた。 「旧教は僧を通じて、神と通じさせた。これは、いわば化儀(宗教の儀式的側面)に流されて化法(法理的側面)を忘れた姿である。 逆に新教は、バイブル(聖書)を通じて神と通ずるというように、化法を重んじた」と。 形式主義におちいって法を軽んじた旧教を厳しく見つめておられた。 このことをふまえて、もとより次元は異なるが、学会のいき方についてこう述べられている。 「われわれ学会は、御書をとおして、日蓮大聖人と直結していくのである」と。 戸田先生は、鋭く本質を見抜いておられた。 偉大なる先覚者であられる。 私どもは、大聖人を信じているのである。 途中の介在者を根本として信じているのではない。 この点を間違ってはならない。 そして大聖人の仏意仏勅のままに「大法弘通慈折広宣流布」の大願を掲げて、行動しつづけている。 だれ人も、大聖人と私どもの間に介在させる必要はない。 また、介在させてもならない。 あえて指導者の使命をいえば、 大聖人と信徒を直結させるための手助け――それ以外にないはずである。 僧侶が、間に立ちふさがって、自分を尊敬せよというのは本末転倒である。 【創価ルネサンス大勝利記念幹部会 平成三年十一月三十日(全集七十九巻)】 Tweet