投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月19日(日)08時51分57秒
四、教皇は信徒奉仕のしもべ

「カトリックでは、教皇は信徒に奉仕する《しもべの中のしもべ》と位置づけられてきた。
したがって信徒蔑視の考え方は、まったくない」

「その点からいえば、法主も信徒の《しもべ》であって当然であろう。
だから私は『しもべよ、威張るな!』と言いたいほどである」

「カトリックでも、(信徒が)教皇や司教(高位聖職者)に跪いたりすることは、第二バチカン公会議(一九六二年から六五年)前後からなくなっている。現教皇もそのようなことを要求してはいない」

「現在の宗門が、《法主本仏論》のような主張を唱えること自体、信徒に奉仕する《しもべ》の自覚がない証拠といえる」

また
「葬儀などの儀式においても、信徒を金儲けの手段にする現状は、宗教の堕落そのものといえる。
宗門では、信仰の根本よりも、儀式が中心となってしまっているのではないか。
その堕落を助長させた僧侶の養成自体に問題があったとしか思えない。
こうした日顕法主ら宗門の現状には、怒るというより、悲しくなってしまう」と。

「日蓮正宗の僧侶は、これほど学会員に支えられて裕福になっているのである。
にもかかわらず、彼らは信徒一人一人のことを、政治家が数える《一票》のようにしか考えていないのではないか」

「日顕管長は、在家出身ではなく、親子二代にわたる《エリート管長》だそうだが、血統を云々すること自体、日本的発想の、おかしなところである。
日本人は、なぜそんなに《血筋》が好きなのか、理解に苦しむ。
仮に親が立派だとしても、子どもも立派とは限らない。
カトリックでは逆に、特別な血統がないところから、いろいろな人材が出ている。
現在、ローマ教皇も、伝統を越えて、イタリア人だけでなく他の国からも出ている。
いずれにせよ、教団に限らず、団体はつねに《新しい血》を入れないと、社会から隔絶した組織になってしまう。
現在の日蓮正宗の宗門は、一部の僧侶による閨閥づくりが進み、一種の閉鎖社会になっているようだ。
このような宗門は《新しい血》を入れて、構造の変化と体質の改善をせねばならないと考えているのは、私一人ではない」

【創価ルネサンス大勝利記念幹部会 平成三年十一月三十日(全集七十九巻)】