投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月19日(日)08時53分16秒    通報 編集済
五、信徒が聖職者の逸脱の歯止めに

「カトリックには、信徒評議会や信徒団というシステムがあり、教団運営にも参画している。
そしてまた、これが聖職者の逸脱を防ぐ働きにもなっているとする見方もある。
評議会の構成は、二十年前ごろなどは世界中の信徒から選ばれた代表十五人と、枢機卿を含めた聖職者十五人の合計三十人であった。
評議会では、聖職者は、議決権を持たない顧問のような立場であり、最終的には信徒の発言と議決によって物事が決定される。
評議会の信徒代表のメンバーは、教皇庁に対して、全世界の教会のあり方について自由に意見を言うことができる」

すなわち、カトリックでは、
このように、信徒の意見を教団に反映する《信徒尊重のシステム》が確立されている、と言うのである。

(《少数の聖職者》の独断ではなく、《大多数の信徒》の総意と利益を尊重する――それが世界の大勢である。

また、在家中心という大乗仏教の精神にも合致しているといえよう。
ところが宗門においては、こうしたシステムがないばかりか、この十数年間、かえって信徒を抑圧し、法主に権限を集中させる体制を着々とつくり上げてきた。

また宗門の「C作戦」(創価学会分離作戦)には
「創価学会の法人責任役員の過半数を、日蓮正宗管長の指名する僧侶が占めることを命じます」等の《信徒団体乗っ取り》の謀案が明記されており、仏法的にも、良識的にも、人権上も、まったく《逆行》の体質が、社会の人々の眼前に浮き彫りになった。

「教皇の出費は、バチカンの国務庁によって決められ、それ以外の金銭は、教皇には渡らない。
信徒が信仰心からバチカンに出したお金は、すべて教皇庁財務局に入り、教皇が勝手に手をつけることはない。
教皇には、財務局から質素な生活費、および公務執行費程度しか支給されていないのが実情である。
教皇個人が、日蓮正宗のように、信徒からの供養を勝手に使えるなど、絶対に考えられないし、許されない。
正宗の宗門は、昔、小さな教団だったので、金銭に関しては、いわゆる《どんぶり勘定》だったのではないだろうか。
創価学会による発展とともに、宗門はそうした体質、構造を変えるべきであった」

【創価ルネサンス大勝利記念幹部会 平成三年十一月三十日(全集七十九巻)】