投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月19日(日)08時50分12秒    通報
日蓮大聖人の仏法は、「太陽の仏法」、全人類を照らす「世界宗教」であられる。
その大仏法を奉ずる私どもの前進も、あらゆる観点から見て《世界的》《普遍的》であるべきであろう。

決して、小さな閉鎖的、封建的な枠に閉じ込めるようなことがあってはならない。

先日、ある著名な宗教学者が、キリスト教と比較して、今回の宗門問題について個人的な所感を述べておられたようだ。
キリスト教にはキリスト教の独自の立場がある。
仏教には仏教の行き方がある。

それぞれの団体が、それぞれの使命感に基づいていくのは当然のことである。
それはそれとして、現代の世界宗教であるキリスト教が、たとえば、いかなるシステムで運営されているかを知っていくことの重要性は論をまたない。
これは「外道礼賛」などではなく、世界を視野に収めた仏法者として、当然の見識であろう。

新たな《世界宗教の条件》を考えていく一つの道理、参考として、少々、紹介させていただきたい。

一、「破門」――驚くべき時代錯誤

その方は、宗門が学会に対して「解散勧告」を出した後、マスコミ等が「次の処分は『破門』になるのではないか」と騒いでいるのを見聞きされ、次のように語っておられたという。

「カトリックにおいても、中世には、カトリックの正統に対し、信仰上で異端説を唱えた場合には、破門に処すことがあった。
しかし、今では破門など聞いたこともない。
『破門』などという言葉や考え方自体、まったく前時代的で、時代錯誤といえる。現在では、なじまないし、考えられない」

「カトリックでは、教皇庁の中に、検邪聖省や、賞罰に関する裁判所のシステムがあり、
異端問題でも何が異端なのか、全員で評議し、判断することになる」

「教皇庁裁判所のシステムは、弁護士、検事、裁判官もいるという民主的な構成になっている。
また、よほどのことがない限り、破門するなどということはありえない。
最近でも、バチカン(教皇庁)のことを《悪魔の巣》と公然と批判した大司教がいたり、異説を唱えた神学部教授がいたりしたが、これらを破門に処すことはなかった。
また、この教授に対しては、バチカンの決定は『世界各国における神学校の教授にはなれない』との判決のみで、聖職の解任等もなかったのである」――と。

「民主的な教団運営」がいかに重要かということである。

【創価ルネサンス大勝利記念幹部会 平成三年十一月三十日(全集七十九巻)】