投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月18日(土)09時00分15秒
今、私どもの「正義の声」「真実の声」「自由の声」が、あの地にも、明るく伸び伸びと響きわたっている。
不気味な「恫喝の声」「脅しの声」は、民衆の声の渦によって完全にかき消され、威力のかけらもなくなってしまった。

「声」は力である。
「声仏事を為す」(御書七〇八頁)と説かれる。
総じて、妙法を根本にした正義の「声」を失うことは信仰の敗北である。
叫び続けていくことが、勝利につながる。

私どもは、これまで十数年間、僧俗和合のため、何があってもひたすら耐えてきた。
つねに宗門を立て、守り、かばおうとしてきた。
だが、今、私どもが宗門の危機的状況を見るに及んで、これ以上、黙っていることは、かえって大悪となる。

後世のために、真実を伝え残しておかねばならない。
今、あらん限りの声で叫び、大悪の根を断ち切っておかなければ、大聖人の仏法は消滅してしまう――これが、私どもの憂いであり、心からの「叫び」となったのである。

もとより「信心の血脈」は、大聖人との血脈である。
私どもは、大聖人を信じ、拝し、日々、信仰に励んでいる。
その無二の信心にこそ正法は脈動すると、大聖人は仰せになっている。
また、大聖人の仏法は「下種仏法」である。大聖人の教えを語っていくことが正法流布の前進となる。
その行動のなかに無量の福徳が備わってくる。

発心下種、聞法下種といって、語った相手がすぐに信心を起こす場合(発心下種)も、起こさない場合(聞法下種)も、その功徳は同じである。
ゆえに語りぬくことである。そこに正義がある。正しき令法久住がある。万年への広宣流布の道が開けてくる。

広布の途上では、善いことにも悪いことにも、さまざまに出あう。
順風だけの人生はありえないし、波風がなければ、航海の喜びもない。
「善悪不二」「善悪一如」である。

生命それ自体、「無明」「法性」という両面をもつ。
深い次元においては、無明という闇があるからこそ、法性が輝く。

このことは、広宣流布の前進においても同じである。
五濁悪世であり、大なり小なり、悪との衝突は避けられない。
《すりかえ》によって被害者が加害者のように宣伝されることも、現代の実相である。
それらを変毒為薬することによって、信心を深め、知恵と福徳を増していけるのである。

その意味で、「宗風を汚す」などということも、表面の世間的な現象によってではなく、どこまでも仏法上の基準によって論ずべきであろう。

現象面の善とか悪とかは、いわば相対的なものであり、その人の立場や見方によって正反対にもなる。
それに対して、仏法の根本は「勝負」である。
「正義」が勝つか負けるか、栄えるか否か――勝負は絶対的なものである。
ここに大聖人の仏法の一つの真髄がある。

【第四十八回本部幹部会、品川・目黒区文化音楽祭 平成三年十一月二十三日(全集七十九巻)】