投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月10日(金)15時37分46秒    通報
二回目に行われたとされる仏典結集は、仏滅後・第一結集から百年後とされています。
ほぼこの前後から仏教教団は、出家僧を中心とする「上座部」系統と、在家信者を中心とする「大衆部」系統とに分裂し、「根本二部分裂」の時代を迎えています。

後に上座部・系統は南方へ伝えられスリランカ・タイ・ミャンマー・カンボジア・ラオスなど、今日の南伝仏教の源流となりました。
この流れを見てみると、第二結集の動機は、釈尊の教法を弟子たちが恋慕の情をもって集成しようとした第一結集の時とは、だいぶ違うものであったと思います。

仏滅後・百年といえば、釈尊から直接の指導をうけた弟子たちはすべて死んでいるでしょう。
だから、滅後百年もたてば誰も釈尊は知らないわけです。
仏教教団も、釈尊の在世時代から数えて四代目から五代目の世代によって運営されようとしていたのではないでしょうか。

当然、時代の状況も大きく変わっていたでしょうし、民衆の生活様式もかなり違っていたにちがいありません。
釈尊の遺訓や教義に対しても、さまざまな異見が出てくるのは、やむをえないといえます。
ただ当時のインドにおいて仏教はいよいよ興隆し、一般大衆のなかにも多数の信者を獲得していったのです。

「大衆部」の支持基盤は主に在家信者だったとされていますが、このことは当時、仏教が一般民衆のあいだに広く浸透しつつあったことをよく物語っています。
また、諸都市の王族や商工業者の信者も増え、各地に僧院もできて、仏法はマカダ国を中心とする東部インドに伝播しつつあったとされています。