投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月10日(金)15時39分15秒    通報
ではなぜ、第二結集が行われることになったのでしょうか。
それはヴァイシャーリー都城にあったヴァッジ出身の弟子たちが、十カ条にわたる戒律の新たな解釈を主張したことに端を発した、といわれています。

この「十事」の戒律といわれる十個の決まり事を見てみると、大変厳格なものです。
「塩を蓄えてはいけない」とか「金銭の布施を受けてもいけない」とかetc・・・・・。

塩さえも蓄えてはいけないという生活の細部にいたるまで、いちいち教団の許可を事前に得なければ、何もできないというあまりにも厳格な戒律主義は、かえって人間を畏縮させていったのではないでしょうか。

仏法流布という大目的に向かっての前進性、行動性も、これでは抑圧されてしまいます。
釈尊滅後百年の教団が、このような戒律主義に陥ったのは、一つには僧侶の特権意識もあったのだと思われます。

「自分たちは、大衆と違って特別な修行をしている」といった意識が戒律をいよいよ煩雑にしていったとは考えられないでしょうか。

ヴァッジ出身の弟子のヴァイシャーリーという都城は、自由な商業都市として発展し、政治形態も五つの種族から代表者を出して、民主的な共和政治が行われていたとされています。
戒律中心の閉鎖的な仏教教団の殻を破る革新運動が、この地から巻き起こったとされるのも、十分うなずけるものがあります。

「仏教は本来、民衆のものです。特権階級の具にしてはならない。釈尊以来の仏教の本来の精神に帰れ」という動きが、ここから湧き起こってきたわけです。
ヴァイシャーリー都城におけるヴァッジ族の弟子たちが、『十事』の新しい戒律をもって修行していたのが、やがて保守的な長老の弟子にも知られるようになります。
そして、大きな問題に発展していくのです。

第一結集で定められた戒律を厳格に守っていた長老派と、その規律を破る出家僧があらわれたことは、教団にとって由々しい事態であると見えたことでしょう。
さっそく全インドから多数の長老たちが集められ、ヴァイシャーリーのヴァーリカ園において会合が行われました。

そこではまず、東西から各五人の僧侶が選出され、小委員会で「十事」をいちいち律蔵に照らして「十非事」と判定し、さらに全体会議にかけて正式に決定されたとされています。
そしてその後、上座(長老)から七百人の僧侶が選出され、もう一度「法(経)」が作られました。
これが「第二結集」とも「七百比丘結集」ともいわれるものです。