2014年10月6日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月 6日(月)12時05分40秒 通報 ここで、開目抄の内容を簡潔に見ていきたいと思います。 開目抄は「人本尊開顕の書」と言われ、自身の体験を通して末法の「法華経の行者」は誰なのか、ということを言及されている書です。 「開目抄」の論理構造は、「標示」「解釈」「結論」をもって展開されて行きます。 「標示」としては「一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂主師親これなり」(一八六頁)、というテーマが掲げられます。 その「解釈」として、法華経に説かれている諸難について、日蓮の行動と対比させながら論が進みます。 その過程で「法華経の行者」たる日蓮が語られていくのです。 その観点から「標示」である「主・師・親の三徳」に絞り込んでいきます。 そして、 「法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし」(二三〇頁)と、真実の法華経の行者は誰なのか、その師を求めていけ! と弟子に訴えていくのです。 そして、立宗宣言の時に誓ったであろう三大誓願が示されます。 「大願を立てん・・・・大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり。 其の外の大難風の前の塵なるべし。 『我日本の柱とならむ』 『我日本の眼目とならむ』 『我日本の大船とならむ』等とちかいし願やぶるべからず」(二三二頁)というものです。 「我日本の柱とならむ」は主の徳。 「我日本の眼目とならむ」は師の徳。 「我日本の大船とならむ」は親の徳となるわけです。 「主師親の三徳」と「三大誓願」とは、非常に関係性が深いことがわかります。 また、弟子に対して「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(二三二頁)と、退転の恐ろしさを訴えます。 つまり、信心を退転することに対して、一切の言い訳は通用しないということです。 そして、最後の「結論」として「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」(二三七頁)と締め括り、日蓮自身がこの「三徳」を体現している者と結論付けます。 Tweet