戦いの方程式②

投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 2日(木)17時41分43秒
大聖人は、「謗法の者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」(御書一三八六頁)

――謗法の者を責めずに、いたずらに遊びたわむれ、気ままな話ばかりして暮らす者は、僧侶の皮をかぶった畜生である――と厳しく戒めておられる。

法師、僧という「ライオンの皮」をかぶって、人々を恐れさせながら、不惜身命の弘法もせず、遊び暮らし、供養を私物化するなどという姿があれば、まさしく「畜生」の姿そのものであろう。

いわんや、信徒が丹精こめた《広布の花園》を破壊しようとたくらむ――まさに御本仏に敵対する、大謗法である。
大聖人はまた、我欲に狂う末世の僧を、「狗犬の僧」(犬のような僧)とも仰せである。

その姿といえば、「名聞名利に著し上には袈裟衣を著たれば形は僧・比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて我が出入りする檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致す」(御書一三八一頁)と。

――名聞と名利に執着し、表面は袈裟・僧衣をつけているので、形は僧や尼に似ているが、内心には邪見の剣をひっさげて、自分が出入りする檀那のもとへ、他の僧尼を寄せつけまいとして、あらゆるでっちあげの言をもって悪口する――。

つまり、檀那(信徒)を、自分の《食いぶち》としてしか考えていない。
その《食いぶち》を得るために、檀那を確保しようとし、ガツガツと供養を得ようと、貪る。
そのためには手段を選ばない。
平気で嘘をつく。
権力をもつ者へ、でっちあげを広めたりする。
人を救う慈悲などまったくない。
――こうした「邪見」の僧を、大聖人は「狗犬の僧」と、厳しく断じられたのである。

ともあれ、攻められて、《にせライオン》は《ロバ》の本性を出してしまった。

仏典の英知は、「表面の『獅子の毛皮』などにだまされるな! こちらが道理を貫き、徹底して攻めぬいていくならば、『悪』はみずから、その『正体』を現す!」――その戦いの方程式を、教えてくれている。

【小田原記念音楽祭、佐賀県総会・合唱祭 平成三年十月十日(全集七十九巻)】